自由を謳歌する

中野(2005)によれば、東洋では太古の昔から「生涯現役」のような生き方を卑しとし、ある年齢になったら引退して、隠居し、もとの己1人に戻って、天地自然の中で優遊と暮らすのをよしとする文化の伝統があった。自分を拘束してきたさまざまなことから解放され、自由なる1個人に帰るのが老年なのだという。


社会人として、仕事や義理や人付き合いの中で生きることは、ある意味、いろんな人や社会のために、自分らしく生きる時間を犠牲にすることによって、自分が生きている時間を奪われていることになる。中野は、年をとったら軸足を社会から自分へ、マインドからハートへ、社会から自然へと移して、閑暇のある生き方に戻るのがよいと説く。身心永閑の生き方である。


肉体は自分の自由になるものではない。自然に属し、他のいきものと同じように生老病死の因果の律を免れない。年をとることは、生まれてきたときの自然に向かっているということである。どんどん身軽になっていき、自然に近づいていくのがよい。子供のときは、まだ社会がなく、自然の中で生きている。閑があれば、自然の声に耳を傾けることもできる。社会を離れ、そのような環境に戻っていくべきであろう。自然の中に遊ぶとは、天地宇宙に遊ぶということで、そこにみちあふれているエネルギー(いのち)にひたり、目に見えない力を授かることである。自然に身を任せていると、自然を感じることができるようになる。


賢者が教えるのは、自分の力のもとにないもの、自由にならないもの、運命に左右されるものについては、それを平然と受け止め、受容することである。例えば、自分の肉体は自然の法則に従うため自分の力の下になく、生老病死は免れない。自分の自由になるもののみを自分のものと思い、その自由を謳歌すればよいという。例えば、自分の精神は自分のものであり、物事を認識すること、善悪判断すること、正否を見極めること、決定すること、意志を貫くこと、勇気を持つこと、などは自由にできるのである。


自分の自由にならないことについてはあくせくせず、運命に任せる。自分の自由になることは、それに感謝し、自由を楽しんで一日一日生活し、目一杯それを享受することがより良く生きることにつながるのであろう。