日本人の歴史観

佐伯(2014)は、日本の歴史観というものは、「おのずと物事が流れて変わっていく」というものだと論じる。歴史を動かすものは別に人間の理性でもなく、「神」の意図でもなく、ほとんど偶然と呼ぶものだが、それぞれの出来事や勝敗や動きは偶然だけれども、もっと大きな目でみれば、その流れそのものが、ひとつの運命として受け取るほかにないものである。つまり、偶然が同時に必然だと考えざるをえないメンタリティを日本人が持っていることを示唆する。


このような歴史観から、運命に飲み込まれていくことの諦めが生じるという。戦争について言えば、日本では「時の流れにうまく乗れば戦いに勝つ。乗らなければ負ける。それは運である。そこにおいては、どちらかが正しいというような、戦争における正義という階念はないという」考え方が強いという。勝敗は時の運であるから、諦めの境地が出てくる。諦めと同時に、その運命を受け止めようとする覚悟が出てくる。だから、日本人の精神性の核にあるのは、「諦め」と「覚悟」なのだと佐伯は指摘するのである。逆にいえば、覚悟を決めるには諦めなければならないということでもある。


日本における「自由」の概念も、上記の歴史観に関連している。佐伯によれば、もともと日本には、何事にも強制されない状態としての「フリーダム」や「リバティ」に対応する「自由」という言葉は生まれなかった。「つぎつぎになりゆくいきほひ」とか「運命」からすれば「自然と一体になる」「真っ白な心をもつ」「無私になる」ということこそ価値あることであり、欧米流の「自由」はさしたる意味がないという。ただ、「自由」が「そこにおのずと理由がある」あるいは「自在」という意味であるならば、その理由とは、「運」とか「運命」とかいう観念であり、そんな状態を知り、それを必然として引き受けたときにこそ自由だというのが日本の感覚であることを佐伯は指摘するのである。


そもそも、日本の精神的な支柱でもある「神道的宗教精神」の奥底にあるのは「清き直きこころ」だと佐伯はいう。世俗的な利益とか欲望とかいった雑念を取り去れば、まことの純粋なこころに立ち返ることができる。純粋な誠の清く直きこころに立ち返り、曇りのない目で自分の世界をみつめれば、自然を味わい、精神の安楽を得ることができるし、誠の道にしたがって走ることができる。自然、天、そして道、といった観念のまわりをめぐって「善き生き方」を発見しようというところがある。現実生活のなかでこころは汚れていく。この汚れを払い、清めるために、神社での儀礼や儀式が必要となるというわけである。