東洋人と西洋人の思考様式の違い(3)
ニスベット(2004)は、東洋人と西洋人の思考様式の違いを説明しているが、今回は、東洋人と西洋人の論理に関する志向の違いについて理解しよう。
西洋人は常に論理の探求を続けてきた。古代ギリシア人が論理に関心を抱いた最大の理由は、論理が議論に役立つと考えたからである。西洋の思考様式の特徴は、形式的・論理的なアプローチを重視する点にあり、数学や科学はその力に大きく依存している。そして西洋人が命題を評価する際には、あれかこれかという二者択一のアプローチを取る。例えば、西洋人は、行動には多くの要因があるとは考えず、原因はただ1つだと考える傾向がある。行動の原因は内的なものか外的なものかのいずれかであり、その両方であるとは考えない。
よって西洋人が矛盾に遭遇した際には、論理的にどちらかを選択しようとし、一方の命題を選んで他方を棄却する。現実の選択場面においても、自分の信念が原理によって導かれていることを示そうとし、選択の根拠として規則をあげる傾向がある。例えば、アメリカ人は無矛盾の原則を重視するあまり、ときとして極端になるべきでないときに極端になってしまうことがある。また西洋人は、真実を引き出すため、あるいは役に立つ仮説を維持するために討論が有効であると確信しており、これは偏見のない開かれた社会を維持する上で重要な役割を果たしている。
一方、東洋人は感覚的印象と常識を信用し、論理よりも情理を志向する。東洋人は論理よりも結論の典型性、もっともらしさ、望ましさを優先する傾向があり、どちらももっともらしいという感覚を重視して両方を追求しようとする。すなわち東洋では、問題解決にあたって、両方に真実があると仮定して臨む。これは矛盾して見える事柄を理解するための第一歩となる。互いに矛盾する関係にある2つの命題の両方を信頼したがる傾向があるのである。よって、折衷的な解決や包括的な主張を好み、一見矛盾する2つの議論を両方とも是認しようとする傾向があり、矛盾に対する感受性が相対的に低い。
このような東洋の論理志向の背景には、古代中国の弁証法がある。これは矛盾に焦点を当て、それを解決・超越する、もしくは両方の側に真実を見出そうとするものであり、以下の3つの原則からなる。
- 変化の法則では、現実が絶え間なく変化することを強調する。世界は安定的なものではなく、動的で可変的なものである。ひとつの状態は今にも変化しようとしていることの兆候にすぎず、現実を反映する諸概念も固定的・客観的なものではなく、流動的で主観的なものである。
- 矛盾の原則では、絶え間なく変化する世界では常に対立・逆説・変則が生み出されるとする。すべての内に古さと新しさ、善と悪、強さと弱さが共存し、対立は両方の側があって初めて成り立つ。道家思想においても、矛盾しあう2つの側面は対立しつつも結び付き、お互いを制御しながら調和を保って共存しているとされる。道は「ある」と同時に「ない」のであり、美・善・有といった概念はすべて、その対概念との相対的な関係の中にある。
- 関係性・包括性の原則では、変化と対立の結果として、何ものも孤立して存在することはなく、多数の異なったものと結びついているとする。何かを本当に知るためには、そのすべての関係を知らなければならない。
この3原則は相互に連動している。すなわち、変化は矛盾をもたらし、矛盾は変化をもたらす。ゆえに、ある要素について、他の要素や以前の状態との関係を考慮せずに論じることは無意味である。また、3つの原則は両極端な命題の「中庸」を見出そうとする姿勢につながっており、矛盾に見えるのは表面だけのことであって、実際には両方とも正しいという仮定が根底にある。
文献
リチャード・E・ニスベット 2004「木を見る西洋人 森を見る東洋人:思考の違いはいかにして生まれるか」ダイヤモンド社
東洋人と西洋人の思考様式の違い(2)
ニスベット(2004)は、東洋人と西洋人の思考様式の違いを説明しているが、今回は、それぞれがどのように世界を捉えているかの視点から理解していこう。まず、西洋人は物事の属性に注目し、カテゴリーに分類することを好む。世界は安定した場所だと信じており、物理的世界と社会的世界の両方を、対象物の固定的な属性や性質によって理解しようとしていた。世界が安定した場所なら、世界を理解するために規則を発達させたり、規則が適用されるカテゴリーを精緻化することに意味がある。つまり、規則を発見してそれを適用する基準としてカテゴリーを用いてきた。
古代ギリシア人の世界は対象物の集まりで成り立っていたから、個と集合の関係は自然なものであり、この関係の重要性を信じていた。これを反映して、西洋人は世界を名詞によって体系化することを志向する。つまり、古代ギリシア人の世界は対象物の集まりで成り立っており、カテゴリーは名詞で表されるため、その伝統を受け継いだ西洋の幼い子供は動詞よりも名詞を習得しやすいのである。例えば、英語は弁別性が高く、文脈を必要としない発話を志向する「主語優位型言語」である。そのため、否応なく対象物に注意を向けさせる。
また、西洋人は世界を分析的・原子論的な視点で見ているため、人や物を環境から切り離された独立したものとして捉えがちである。西洋人は自分個人の目的を自分の好きなように追求する人々であるがゆえに、目的の達成に役に立つように状況をモデル化しようとするし、逆に、起こった出来事についても、結果から要因へと逆向きにたどりながらモデル化しようとする。また、モデルは往々にして目的とする対象物やその属性だけに着目し、文脈が果たす役割を軽視しがちである。
つまり、西洋人はどちらかというと限定的な視野を持ち、出来事の原因は人や物の特性にあると考えがちである。対象物には抽象的な性質を混ぜ合わせたエッセンスが備わっているとみなし、文脈と切り離された行動予測に自信を持つ。このため、出来事の原因を状況ではなく個人の性質に帰属させる「基本的帰属過誤」に陥りやすい。また、自分一人で出来事を制御できると思い込む傾向があり、客観的判断を超えた「コントロール幻想」(エレン・ランガー)にも陥りやすい。さらに、西洋では、物事は極端に向かって直線的に進むと仮定しやすい。
一方、古代中国人は、個々の要素の類似性やカテゴリーには関心を持たず、属性に基づく分類を好まなかった。集合内の要素と集合全体の関係(個と集合の関係)には関心がなく、代わりに、集合と集合の類似性、つまり連続体における部分と全体の関係に関心を持った。なぜならば、古代中国人の世界は連続的な実体で成り立っていたからである。
古代中国人は変化を信じており、物理的世界と社会的世界の両方を、対象物とその周囲の力の場との相互作用として理解した。東洋の伝統的な考え方では、対象物の属性は必ずしも安定的ではなく、周囲の環境との相互作用によって行動が生み出される。古代の道教・儒教哲学者は、物事は絶え間なく変化し、現在の変化の方向が今後も保たれるとは限らず、むしろ方向転換が目前である証かもしれないと信じていた。極端よりも中庸を目ざし、前進よりも回帰を仮定する。世界は変化に満ちており、行ったり来たりするものと考えるのである。
このように、東洋人にとって世界とは複雑な場所であり、連続的な実体から成り立ち、部分ではなく全体として理解すべきであって、個人の力よりも集合的な力に左右されている。東洋の伝統的な考え方では、対象物は具体的な性質を持っており、これらが周囲の環境と相互作用を起こして行動を生み出す。東洋人にとって対象物の属性は必ずしも安定的ではない。つまり、世界は複雑でとても変化しやすく、世界を構成する種々の要素は互いに関連しあっており、さまざまな出来事を一方の極から他方の極へと循環するものとして見ている。よって、出来事を制御するためには他者との調整が必要だと考えている。
このように、東洋人は、世界を全体的に眺めており、人や物を環境との関わりの中で認識する。よって、東洋人は場(特に背景で起きている出来事)をよく見ており、出来事同士の関係を観察するスキルを持っている。広角レンズの視野で世界を全体的に眺め、人や物を環境との関わりの中で認識するのである。出来事の原因は複雑に絡み合った文脈的要因にあると考え、制御のためには他者との調整が必要だと認識している。
言語学的に言えば、関係を記述するためには明示的もしくは暗黙的に動詞が用いられる。そのため、東洋人は、世界を動詞によって体系化することを志向する。例えば、東アジアの言語(日本語・中国語・韓国語)は文脈的で、単語や音素が複数の意味をもっているのでそれらを理解するためには文脈が必要である。文の中に話題が占めるべき位置(一般的に文頭)がある。言語として文脈的であり、単語や音素が複数の意味を持ち、理解するのに文脈が必要である「話題優位型言語」なのである。
まとめると、西洋人は単純さを好み、東洋人は複雑さを仮定する。西洋人にとって世界とは比較的単純な場所であり、個別的な対象物から成り立ち、文脈を考慮せずとも理解できると考える。一方、東洋人にとって世界とは複雑な場所であり、連続的な実体から成り立ち、部分ではなく全体として理解すべきものである。西洋人にとって、行為しているのは自分である。東洋人にとって、行為は他者との協力によって引き起こされる、もしくはさまざまな力の働く「場」において自己が作用した結果として生じる。
この違いは、環境の中の小さな部分に注目するか全体に注目するかの違いから生じると考えられる。全体の複雑さに注意を払わず、世界が単純に見えるとするならば、多くの変化を予測せず、変化も直線的であると考えるだろう。逆に、世界を複雑なものとして捉えると、安定はむしろ例外であり、変化こそが通例となる。多くの要因が関連すればするほど、変化の程度が変わったり方向が反転したりする可能性が高いからである。西洋人は、安定的な対象物をカテゴリーに分類するという視点で世界を捉えている。東洋人は、世界を関係によって捉えている。そして、この世界のイメージの違いは言葉の違いとも関連しているようである。
文献
東洋人と西洋人の思考様式の違い(1)
現代社会は、科学技術や資本主義をはじめとして、西洋文明、すなわち西洋人の思考様式の強い影響下にある。しかし、東アジアの人々、すなわち東洋人は、伝統的に西洋人とは異なる思考様式を持っている。この東西の思考様式の違いを体系的に論じたのがニスベット(2004)である。例えば、彼は多様な文化心理学の研究に基づき、西洋人には「分析的思考」が、東洋人には「包括的思考」がそれぞれ優位であることを示している。ニスベットが指摘する東西の思考様式の違いは、以下のように大きく3つの軸に整理できる。
第1は、注意の向け方と関係性の捉え方である。東洋人は環境全体に広く注意を向け、出来事の間の関係を見出そうとするのに対し、西洋人は個々の対象物に注意を集中させ、文脈の影響を見過ごしやすい。東洋人は物事を周囲の状況との関係の中で捉えることを得意とする一方、対象を文脈から切り離して把握することは苦手である。
第2は、世界観とカテゴリー化の様式である。西洋人は世界を独立した対象物の集合として捉え、カテゴリーによる分類を好む。そのため、動詞よりも名詞を早く習得し、物事を分類する際には対象自体の属性を重視する。一方、東洋人は世界を連続する実体として捉え、対象物どうしの関係性を強調する。そのため、名詞よりも動詞を早く習得し、物事を関係性の観点から理解しようとする。
第3は、変化・安定・矛盾への態度である。西洋人は世界の安定性を前提とし、環境を自分の意図通りに変えられると考える傾向が強く、矛盾に直面した際にはどちらか一方が正しいと判断しようとする。また、日常の推論においても形式論理に依拠しやすい。対して東洋人は変化を常態と見なし、矛盾する命題を容易に受け入れ、中庸を求める。
こうした思考様式の違いは、それぞれの文化が受け継いできた知的遺産に根ざしているとニスベットは論じる。西洋人の思考の源流は古代ギリシアにある。ギリシア哲学は、個人の主体性と自律性を重んじ、自らの意志で人生を選択することを理想とした。哲学者たちは世界の根本的な性質を理解しようと、人・場所・物体などの対象物の属性を分析し、カテゴリーに分類することを基本姿勢とした。世界は不変で安定したものと見なされ、矛盾のない論理的一貫性が真理探究の要とされた。ギリシア人は自立的で自己主張を重んじ、討論を通じて真理に迫ろうとした。
一方、東洋人の思考の源流は古代中国にある。中国の伝統的思想では、個人は集合体の一員であり、他者との関係の中に自己が存在するという認識のもと、調和が最重要の価値とされた。道教は、世の中は絶え間なく変化し矛盾に満ちているという世界観を持ち、対立・矛盾・変化・循環を根本原理とする。「人間万事塞翁が馬」という言葉に象徴されるように、ある状態はその対立物との関係においてのみ理解される。道(タオ)の核心には終わりなき流転と回帰があり、自然と人間の融合が説かれる。また儒教は中庸を重視し、いかなる極端も避け、二つの主張の双方に真実を見出そうとする。儒教・道教に共通するのは、抽象的な真理を探究するよりも、この世を生きるための「道」を見出すことへの関心であり、行動の指針とならない思考は無意味とされる。
中国人の社会生活は他者との協調を根幹とし、自由よりも調和をモットーとした。世界は複雑に絡み合い、出来事は互いに関連し合い、物も網の目のように結びついていると見なされた。それゆえ、文脈を無視して対象物を理解しようとすることは無謀とされ、場を理解することが対象の動きを把握する前提条件とされた。また、矛盾は排除すべきものではなく、事物・出来事の間の関係を理解し、反対意見を統合し、粗削りながらも有益な考え方を取り込むための手がかりとして積極的に活用された。
以上を整理すると、西洋の思考様式は、対象を文脈から切り離して分析し、矛盾を排除しながら普遍的な真理を論理的に追求するものである。対して東洋の思考様式は、対象を文脈や関係性の中で全体として捉え、変化と矛盾を受け入れながら調和を志向するものである。現代社会が西洋的思考様式を基盤として構築されてきた以上、東洋人がその思考様式との違いを自覚的に認識することは、自らの認識の特性を理解するうえで不可欠な視点となる。
文献
なぜトップジャーナル投稿論文の改訂作業は困難を極めるのか(3)
前回は、難攻不落とさえ思えるトップジャーナルからのR&R要求に対してどのような心構えと行動で論文を改訂してばよいのかについて書いてみた。今回は、論文の改訂と同等の、あるいはそれ以上に大変なエディター、査読者への手紙を作成するプロセスについて述べてみたい。
トップジャーナルの場合、血の滲むような苦労をしてなんとか原稿を改訂したら、あとはその内容を査読者への手紙に要約して再投稿すればよいだろうと安易に考えたのならば、その考えは間違っている。エディター、査読者への手紙(以下、レスポンズ・レター)の作成は、論文そのものの改訂と同等かそれ以上に手間と時間がかかる作業であると言っても過言ではない。場合によっては、レスポンズ・レターの分量は、論文そのものの分量を超えるかもしれないのである。とりわけ、査読コメントの分量がとても長くて論文を超えるかもしれないくらいのものであれば、それも当然であるし、そのような査読コメントが返ってきがちなのがトップジャーナルの審査プロセスなのである。
レスポンズレターの作成時には、まずもって、忙しい中で自分の論文に対して親身になって向き合ってくれるエディターや査読者への感謝と配慮を忘れてはならない。ともすると、トップジャーナルのような難易度が最大級のジャーナルに挑戦している時は、自分の論文のことだけで頭が一杯になってしまい、それを審査するエディターや査読者の状況、そしてジャーナルそのものの運営の裏側にまで頭が回らないという事態に陥りがちである。前々回で、トップジャーナルのエディターや査読者は、自分の業務時間の大半を研究活動に費やすことができるような環境が与えられている世界屈指の研究大学の研究者が多いことを述べたが、それは、そのような人たちが暇であることを意味しているわけではない。研究プロジェクトをいくつも抱え、学会やジャーナルを支えるためにエディターや編集委員の業務に身を捧げている。世界中からのトップジャーナルへの投稿数は膨大である。したがって、数多くの論文の査読をしなければならず、多忙を極めている。
であるから、レスポンズレターの作成で重要なのは、エディターや査読者に不必要なストレスを与えてはいけないということである。エディターや査読者がストレスなく改訂原稿の再査読に集中できる環境を最大限に整えてあげるのは著者の責務である。では、不必要なストレスがないとはどんな状況だろうか。まず、査読者はいくら最初に投稿された論文を真剣に読み込んでコメントしたとしても、それは数ヶ月あるいはそれ以上の前のことなので、その後も数多くの査読をこなしており、多くのことを忘却している。よって、当時どんな印象をこの論文に抱いてどんなコメントを自分がしたのかを円滑に思い出すことが必要である。レスポンズレターは、それを助けてあげなければならない。また、改訂論文をじっくりと読み直さないとどこをどう改良したのかが分からないと大きなストレスになる。よって、論文全体において大まかにどんな点をどう直したのかのサマリーが冒頭にあると良い。
査読者やエディターの頭の中には、この論文に対する懸念点が最優先事項としてあって、これはいわゆるその論文のボトルネックである。それぞれの査読者が異なるボトルネックを認識しているかもしれないので、それぞれの査読者に対して、その人が認識しているボトルネックに改訂のプロセスでどのようにアプローチし、どう乗り越えたのかが一番最初に分かるのが望ましいのである。そこで、それがなんとか乗り越えられていそうだと実感できれば、レスポンズ・レターをじっくりと読んで自分が書いたコメントを思いだしながら、それへの対応を1つ1つ吟味していくことになる。もちろん、すべての査読者が最初の段階でR&Rのレコメンドをしたとは限らず、中には不採択のレコメンドをした査読者もいるだろう。しかし、エディターがR&Rの決定を下したことを踏まえれば、改訂内容如何では自分の当初の判断を見直すかもしれないので、そのような査読者が満足してくれるようなレターを書くことは重要である。
レスポンズ・レターの書き方の基本は、point-by-point の回答で、査読者のコメント(またはその要約)を記載し、その下に著者としてそれに対してどう対応したかをコメントする。そうすることで、査読者は、自分が書いたコメントが著者にどのように伝わり、それに対して著者がどう対応し、その対応箇所がどこなのかが即座に分かるようにする。大切なのは、査読コメントを言い換えたり要約したりしながら、著者なりに正しく理解していることを示すことである。査読者は、自分が書いたコメントが正しく受け止められたのかを気にしている。だから、コメントを正確に理解していることと、それに対する反応、たとえば至って同意するとか、査読者の視点は理解できるとか、状況によってトーンを変えながら反応する。
どんなに優れた査読者とて、すべて正しいコメントをするわけではないから、著者として査読者の意見や助言に同意できなくても、盲目的に従ったりおもねたりする必要はない。そうではなく、査読コメントをどう活用したかを示せばよい。例えば、査読コメントから当初は深く検討していなかった視点に気づくことができ、関連文献を詳細に調べてきた。最終的には査読者の助言とは異なる改訂となったが、広範に検討する機会を与えてくれたことに感謝する、といった返事が考えられる。そうすれば、査読者からすると、自分が書いたコメントが無視されたり頭ごなしに否定されたりしたのではなく、何らかのかたちで著者の助けになり、論文の改訂に役立ち、かつ著者から感謝されていることが分かるので、その改訂に合意できるのであれば気持ちよく査読を続けることができるのである。
最後に、レスポンズ・レターを作成するタイミングについて少し触れておこう。BジャーナルやCジャーナルの場合は、論文を改訂する前の段階でレスポンズ・レターの作成に着手するという方法もある。これはなぜかというと、前々回でも述べたように、これらのジャーナルの場合はコーゼーションを通して改訂版のイメージからバックキャストで改訂作業ができるのと、査読者の各コメントはテクニカルな要素が多いので、最初にそれらのコメントに対してどう対応し修正すればよいのかの計画が立てやすい。よって、レスポンズ・レターをいったん完成させることは、論文を改訂する際の仕様書を作成するのに似ているからである。そして、その仕様書に沿って論文の本文を改訂していけばよいのである。
トップジャーナルの場合は上記ほど単純ではない。とりわけ、非常に難易度が高く対応が難しいコメントについては、論文改訂の見通しが立たないと、レターさえ書けない。よって、現実的には、論文の改訂と並行しながらレスポンズ・レターの作成も進めるというのが多いだろう。論文の改訂がある程度終わりに近づいたところでレターの作成に着手するというケースもあるだろう。ただ、トップジャーナルの査読とはいえ、すべてのコメントが論文のボトルネックに切り込んだものではなく、中には、やや重要度が低いテクニカルなものも含まれているので、前回も述べたようにとにかく日々少しでも前進することを心がけるならば、テクニカルで局所的なコメント(そのコメントへの対応が論文全体のフレーミングなどに影響しないもの)は早めに取り組み、Bジャーナルなどのようにレスポンズ・レターのそのコメントへの回答の作成と論文の改訂を進めてしまうという手もある。
エディターや査読者も人間なので、いくらプロフェッショナリズムを持って査読にあたるといっても、審査のプロセスや判断が論文改訂のお作法の適切さなどに伴う感情やストレスの影響を受けないわけはない。例えば、誤字脱字が多いというのは論外である。改訂論文が前回よりも優れたものに仕上がり、ジャーナルの掲載基準に近づく品質にまで向上していることは大前提だが、エディターや査読者に対する感謝と気配りを最大限に行い、気持ちよく改訂論文を審査してもらえるよう、次回の再査読に向けて最善を尽くすことが求められるのである。
なぜトップジャーナル投稿論文の改訂作業は困難を極めるのか(2)
前回は、採択率が非常に低く世界最高峰の難易度を誇るトップジャーナルからなんとか改訂後再査読(R&R)をもらえたとしても、採択可能性が若干向上する程度であること、そして改訂要求がいかに厳しいものであり、改訂に困難を極めるものであるのかについて解説した。今回は、これほどまでに過酷なトップジャーナルのR&Rに対し、どう改訂していけばよいのかについて述べてみたい。
まず、これは蛇足かもしれないが、一般論としてよくアドバイスされることとして、すぐに改訂作業に入らないことである。まず、トップジャーナルからそう簡単にもらうことできないR&Rをもらった直後は必ず興奮状態になる。その論文にどれだけの血肉を捧げてきたかを考えれば当然のことである。そして、2~3人分の査読コメントとエディター自身のコメントを合わせると膨大な量にわたる査読コメントを一読した後は、それに対する圧倒や期待と不安が入り混じった興奮なのか査読コメントに対する憤りなのか、何らかの強い感情がミックスして頭に血が上った状態になるので、2~3日、査読結果のコメントを真剣に読まずに寝かせておくのがよいだろう。
そして、落ち着いてきたら改めて査読のコメントを読んでみる。この段階では、冷静な頭で、いかに改訂作業が困難であるかについて実感することになる。トップジャーナルにおける査読コメントは、改訂原稿の最終イメージからのバックキャストすることによるコーゼーションで対応することが困難な特性を持っていることを前回述べた。実際、トップジャーナルにおける査読コメントではいろいろな疑問や質問が投げかけられるが、それらが論文や研究の本質的な問題に根差したものが多いので、たしかにそうだと思うが、解決するのが難しくてすぐに答えが浮かんでこない。よって、どう改訂していけばよいのか、全体像がなかなか浮かんでこない。
つまり、現状を打破するための方策が見えてこない。改訂版のアウトプットイメージが見えてこないので、BジャーナルやCジャーナルのケースのように、アウトプットイメージからバックキャストするコーゼーション(因果論)的、トップダウン的な方法がなじまない。しかし、査読で指摘される問題は、論文全体にまんべんなく散らばっているというわけではなく、ボトルネックとして立ちはだかっていることが多い。逆にいうと、ボトルネックをうまく解決できると霧が晴れてくることが多い。ただ、あまりの難敵に、それを突破できるかどうか分からないところが苦しいのだ。
そこで、現実的かつ効果的なアプローチとして知っておきたいのが「エフェクチュエーション(実効理論)」のプロセスである。エフェクチュエーションについての詳しい説明は別の情報に委ねるとして、ポイントは、ゴールからバックキャストするのではなく、現在の状態や持っているリソースから出発して、手持ちのリソースで自分ができることをやってみることで一歩一歩前に進んでいくことである。解決不可能だとさえ思えるような難題に直面すると、放心状態になってそれを放置してしまい、他のことをしてしまいがちである。しかしそうではなく、少しずつでもいいのでとにかく毎日必ず時間を確保して考えたり書いたりして、何か糸口を見つけ出そうとしてもがいてみるのである。
とにかく毎日一定の時間を確保したら、まずは査読コメントを何度も何度も読み返し、重要な箇所にマーカーを入れたりする。このプロセスで、辛辣すぎて敵意にしか見えないようなコメントも次第にサポーターからの親身なアドバイスに見えるようになってくる。エディターからのコメントも、どうやったら掲載可能な原稿になるのかについての親身なアドバイスであることに気づく。このプロセスに勇気づけられることがモチベーションを高めるうえで重要である。
そうすると、例えば2名もしくは3名の査読者のコメントの中に、共通するものが見つかったりする。それらをいったんまとめて、改訂のために取り組む課題の塊(ブロック)をつくる。そのブロックには、まさにボトルネックとなる超難題もあれば、比較的テクニカルでしばらく考えれば対応策が思い浮かんでくるようなものもあるだろう。そして、改訂を要する箇所に関するコメントで推薦されている論文や、その他関連する論文を片っ端からかき集める。それらを読み、持ち歩く。そうなると、あれも読もう、これも読んでおこうということになるので、トップジャーナルの改訂作業のプロセスで関連する学術知識が蓄積され、結果的に相当の実力がつく。これは改訂作業の思わぬ副産物であるといえる。読んだ論文が改訂に利用されなくても十分に元はとれるということだ。
また、いろんな人と対話をしたり、改訂の役に立つ新たな論文との出会いがあったりなど、偶発性も味方につけながら、手持ちのリソースを増やしていく。特に、これまでは馴染みのなかった分野も含めていろんな分野の論文に当たってみるうちに、「これは!」という論文に当たることもある。また、対話といっても、研究者や実務家とのリアルな対話もあるし、論文をじっくりと読みながら、自分の頭の中で論文の著者と静かに疑似対話するというのもある。
改訂論文のクリアなゴールが見えないなかでのこのような探索的プロセスは、論文が成功裏に改訂できるのかどうかも分からないので不安に駆られるかもしれない。しかし、1つ1つの査読コメントを読み込み、問題ごとにブロック化し、対応可能なものから丹念に1つずつ改善していくことが大切である。1日にちょっとでもよいので前進するのである。小説家が、たった1つの文を修正するのに数日もかかるというような逸話を思い出すとよい。そうすると少しずつでも論文が改善されていく。一歩一歩、着実に前進する。このようなボトムアップアプローチがトップジャーナルでの論文改訂には有効である。自分の手持ちのリソースを用いていまできることから前進していくエフェクチュエーション的なアプローチというわけである。
ボトルネックがあまりにも難敵すぎてそれに対する解決の糸口がみつからなくても、いろいろと試行錯誤したり考えたりすることを続けることが大切である。これは苦しい作業であるが、毎日、苦しみで唸ることを日課にしてしまうくらいの気持ちでやれば、その苦しみさえも楽しめるようになるかもしれない。そのうち、寝ても覚めてもその問題が頭から離れないくらいになるだろう。他のことをしていても、無意識の中でも考えるようになる。そのプロセスでは脳内で知識の熟成作業が継続しているので、ちょっと気晴らしにリフレッシュしているときに、よいアイデアが閃いたりすることもある。ボトルネックを突破する一寸の光が見えてくると、状況が良くなっていることを実感することができるし、論文の改善が一気に加速することもある。
そして、忘れてはならないことが、査読コメントに感謝し、それを最大限に活用しつつも、論文改訂の目的は論文の質をこれまで以上に高めることだということである。エディターや査読者を満足させること、査読者におもねることに気を取られすぎて、論文の質が逆に悪化してしまうようなことは絶対に避けるべきである。エディターや査読者はサポーターでありアドバイザーであるが、彼らが絶対的に正しいわけではない。よって、彼らからのアドバイスにすべて従わないといけないわけではなく、それらとは異なる見解を持っていたりしてアドバイス通りに改訂しない場合には、その旨を伝え、その理由を丁寧に説明すればよいのである。
毎日改訂の時間を確保し、全く進展しない日や、たった1文しか修正できない日があったりして、亀のようなスピードであったとしても、必ず論文は改善されていく。昨日よりも今日、今日よりも明日というように。見た目で全く進展していないように思えても、頭の中で考えたり試行錯誤している作業によって、頭の中では確実に前進しているのである。そして、ちりも積もれば山となるとか、千里の道も一歩からの精神で前に進んでいくことがトップジャーナルにおける改訂作業では何よりも大切なのである。頂上がまったく見えないような山に登り続け、とにかく一歩一歩登り続け、これではいつまでたっても頂上にたどりつかないのではないかと気が遠くなったくらいにふと立ち止まって振り向くと、すでにかなり高いところまで登ってきたことを実感することがあるだろう。トップジャーナルにおける論文の改訂もそれに似ている。
そんな呑気ことで締め切りまでに改訂が間に合うのかと不安に思うかもしれないが、改訂原稿提出の締切については、厳守というほどではない。もちろん例外はあって、それは特集号のケースである。特集号は、いつ発刊するかの計画があるため、それに論文の採択が間に合わなければ大きな問題となるので、締め切りはほぼ厳守しないといけない。一方、レギュラーの論文は、掲載の締め切りがなく、採択されればその都度、掲載される。よって、この日までに掲載しなければならないというものではないので、エディターも査読者も、締め切りの延長には比較的寛容である。
よって、どうしても改訂が間に合わない、現段階ではまだ納得できないのでさらに改訂したいという場合には、迷わずエディターに相談してみるのがよい。締め切りを守るために不十分な改訂原稿を提出してしまっては本末転倒で、リジェクトの可能性を高めるだけである。ここまで地獄のような日々を送りつつ改訂してきたのに、そんなことでリジェクト率を高めてしまっては勿体ない。とにかく最善を尽くすことに徹するのが大切である。
次回は、論文の改訂作業と同時にやらなくてはいけない、エディターや査読者への手紙の書き方に少し触れてみたい。
なぜトップジャーナル投稿論文の改訂作業は困難を極めるのか(1)
研究者であれば、自分の論文を、多くの研究者から評価されかつ掲載論文の引用回数も多いレベルの高いジャーナルにできれば掲載させたい。自分の研究分野のジャーナルは数あれど、その中でも最上位に位置付けられるトップジャーナル(あるいはAジャーナル)の場合、経営学で言えば採択率が5%を下回ることもあるくらい難関である。であるから、投稿しても多くの場合、リジェクトされることになる。むしろ、トップジャーナルに論文を投稿してもリジェクトされることがデフォルトとなっているといってよい。一方、査読で好意的な評価を貰えば、改訂および再投稿(revise and resubmit: R&R)の誘いがくる。そうなれば、ジャーナルに論文が掲載される確率がいくらかは上昇することになる。
しかし、トップジャーナルからR&Rをもらったからといって手放しで喜ぶわけにはいかない。むしろさらなる地獄が待っている。トップジャーナルを目指して論文を執筆することはこの分野で世界最高峰の論文を作成することであるから投稿までには地獄のような辛い日々を過ごすことなのだが、R&Rをもらったらその改訂のためにそれに輪をかけて地獄の日々を過ごすことになるのである。しかも、多くの場合、査読結果を知らせるレターに"high-risk"と書いてある。困難を極める改訂作業をして苦しんだ後に再投稿しても次にリジェクトされる危険性が大いにあるということであるであるから生殺し状態である。今回は、なぜトップジャーナル投稿論文の改訂作業は困難を極めるのかについて説明したい。
トップジャーナル(Aジャーナル)と、それ以外のBジャーナルやCジャーナルなどとは、R&Rになった後の難易度が桁違いに異なる。C→B→Aという順に直線的に難易度が高まってくると思われるかもしれないが、実はそうではなく、階段状である。例えば、BとAの間には断崖絶壁に近い不連続な難易度の変化がある。トップジャーナルとそうでないジャーナルとで、そのような難易度の差を生み出すの査読コメントの違いは、エディターや査読者の力量の違いに起因する。特に、トップジャーナルの編集委員会では、世界屈指の研究大学に所属する実績ある研究者が多く、自分の業務時間のほとんどを研究や査読の仕事のみに費やしているのではないかと思うような研究者が山ほどいる。そういった人々がエディターや査読者を務めている。よって、丁寧かつ深く論文を読み込んだ上で、鋭いコメントを含むとても長い査読コメントをフィードバックしてくる。
それ以外のジャーナルになってくると、査読チームとしてそのような「贅沢な」時間が確保されている研究者を擁するのが難しい。研究時間が多い一流の研究者に査読依頼をしても、そのような研究者はさまざまなジャーナルから毎日のように査読依頼がくるので、トップジャーナル以外の査読を引き受ける余裕がない。そのことから、トップジャーナル以外のジャーナルにおける多くのエディターや査読者は、かなりの時間を大学での研究以外の教育や運営業務に費やしており、それらをやりながらの作業として査読を行なっている人々であると思われる。トップジャーナルのような世界最高峰の知識を生産する場においては、他の業務をやりながら片手間で作業をするという状況では到底許されないといった学問上の厳しさも反映されており、そのような責任感と時間的余裕を持っている研究者のみが査読の機会を与えられるといっても良いだろう。
さて、トップジャーナル以外のジャーナルからのR&Rだと、査読者から指摘される改訂を要する箇所は、論理展開の明瞭さの改善とか、分析の精緻さの改善だとか、テクニカルなことが多い。テクニカルな部分であれば、それをどう直せば問題が解決するかが分かりやすいので、改訂後の原稿の最終アウトプットイメージが描きやすい。よって、最終アウトプットからバックキャストすることで改訂のために何をどうすればよいのかの計画が立てられる。アントレプレナーシップ研究で、目標から逆算して計画する因果法(コーゼーション)というコンセプトがあるが、BジャーナルやCジャーナルのR&R後の改訂作業は、コーゼーションのプロセスで対応可能である。つまり、目指すべき改訂稿(目標・目的)をクリアに設定し、そこに至る道筋をバックキャストで合理的に計画し、計画通り作業する元で目標にたどり着くというアプローチで改訂していくことができる。
一方、トップジャーナルの査読コメントでは、簡単に解決ができないような根本的かつ本質的な問題を指摘してくる。根本的な問題であるがゆえに、どう対応してよいか分からない。例えば、それに対応して修正すると論文全体のフレーミングが変わってしまうなど、論文全体に波及するような問題を指摘してくる。しかもそのような問題が複数あって、相互に関連しあっている際にはさらに問題が複雑難解となる。一方の問題を修正するともう一方の問題が悪化してしまうというようなバランスの問題も起こる。例えばAMJのような対象領域の広いトップジャーナルに投稿する論文自体、分野内の狭い議論に終始することなく、学際的な視点や新規性の高い視点を取り入れたりしているので、既存の分野の先行研究などを参照しても解決不能で、どこか別の分野にヒントを探しにいかなければならないようなな問題も多い。今までにないものを生み出そうとしているわけだから、それは当たり前のことではある。
トップジャーナルのエディターや査読者は、学問上の妥協をもっとも許さない人たちなので、研究の学問的価値が疑わしい場合、弱点がある場合は容赦なく攻撃してくる。学問上で明らかな欠陥のある論文など掲載できないので、それも当たり前のことではある。彼らが完璧だと思う論文しか掲載しない。また、エディターや査読者も、査読のプロセスで明確な改訂イメージを描いてアドバイスをしてくるわけではない。実は、エディターも査読者も、彼らが論文に対して投げかける疑問や問題点が本当に解決されるかどうか分からないことが多い。致命的な欠陥があってそれが修正不可能だと判断できる場合はリジェクトの決定が下されるが、そこまではいかず、かといって修正可能かも分からない。でも、論文が秘めるポテンシャルに魅了を感じている場合には、High-RiskのR&Rを著者に提示する。
査読は論文を良くするために修正が必要な箇所の指摘に終始するため、ポジティブなコメントがあったとしてもそれは手紙の最初の数行くらいである。だから、幸いR&Rとなって査読結果をもらったとしても、基本的にはネガティブなフィードバックばかりだから心が萎えるかもしれない。しかし、これはそういうものなので経験を積めば慣れてくる。査読者はとても厳しいコメントをしてくるが、その厳しさは、著者に対する敵意や攻撃ではない。学問に対する妥協を許さない真剣さである。だから、トップジャーナルに近ければ近いほど、「まあいいだろう」という態度がない。査読者も真摯に投稿論文を向き合い、毅然とした態度で査読がなされるわけである。
そしてこれが忘れてはならない大切なことだが、そもそも、改訂要求をしてくるということは、エディターも査読者も、この論文に対して何らかの好意を抱いており、指摘する問題が解決するのかしないのか、エディター側も判断できないので、まずは改訂のチャンスをあげようという意思決定をしたわけである。だから、査読者、そしてとくにエディターは、著者のサポーターであり、厳しいながらも著者の味方でもあるコーチだと考えれば良い。エディターは、自分が掲載したいと思わない論文にR&Rを出したりはしない。
では、これほどまでに過酷なトップジャーナルのR&Rに対し、どう改訂していけばよいのか。次回はそのあたりについて述べてみたい。
