思考実験とは何か2

榛葉(2022)によれば、人類は、思考実験を通して、未知なるものが何者なのか、見当をつけてきた。そうやってとりあえず歩き始めてみて、その方向に疑問を呈したり、逆にその疑問に対して反論したりする時にも、思考実験が繰り返されてきた。そのようにして人類は、世界についての理解の解像度を上げてきたという。例えば、人間が直接認識することが困難な微小な世界を扱う量子力学のように、未知なものに見当をつけ、未知なるものの正体に近づくことは人類の喜びでもあるというのである。大体の見当をつけるには、なるべく条件を単純かつ極端なものにするのが有効であることから、思考実験がなされてきたともいえる。

 

榛葉自身は自然科学における思考実験を多く解説しているが、社会科学の思考実験も紹介しており、かつ、私たちの人生も思考実験の連続だと指摘する。ただ、思考実験には、何と何を比較すればよいのか、どのように比較すればよいのか、比較した結果、どのような結論を出せばよいのかなどについてのセオリーがあるという。歴史に語り継がれるような思考実験には、仮説の立て方や推論の進め方が的確で、なるほどと思わせるようなみごとなものが多いというのである。では、思考実験にはどのような種類があるのだろうか。榛葉は、その目的を基準にして、思考実験をいくつかの種類に分類している。

 

まず最初の分類は、「批判のための思考実験」である。この種の思考実験は、ある理論や原理を信奉している人たちに対して、その難点を指摘する方法として、相手の理論の通りではうまくいかないことを示して納得してもらおうとするようなものである。例えば、ガリレオによる物体の落下速度の思考実験のように、背理法を用いることが多いと榛葉はいう。これは、相手の主張から2つの別々の演繹を導き、この2つが矛盾していることを突くことによって相手の主張が間違っていることを指摘しようとする方法である。

 

つぎに、「発見のための思考実験」である。これは、経験・観察に基づく直感や、アブダクションや類推によるような直感的な発見を、もう少し論理的に整理された形で確かめるものである。別々のものと認識されている事項に、直感的に共通性を感じ取ったとき、それを本質的な同一性にまで高めるためのものだと榛葉やいい、具体例として、アインシュタインによる「重力上の中で自由落下するエレベーター」「無重力空間で加速されるエレベーター」を引いている。突拍子もないかもしれない思い付きが降りてきたときに、それがうまくいくかどうかを思考実験で試しにやってみるのだと榛葉はいう、

 

さらに、「弁護のための思考実験」がある。例えば、量子力学は、私たちの直感に反し、私たちの世界観や自然観を逆なでするようなものの見方を要求する。こういった場合に、量子力学の理論が正しいことを、すなわち量子力学を弁護するための思考実験が多くなされてきたと榛葉は指摘する。例えば、実際に実験をすることで確認ができない量子力学での振る舞いについて、これまで用いてきた古典力学的な思考の枠組みでどこまで新しい謎の世界観に迫ることができるのか、そんな企みをはらみながら思考実験のアリーナで量子力学と対峙し、形成によっては登場する役者を取り替えたり、ルールを変更したり、極限状態を設定したりと戦い方を自在に変化させて、この新力学がなんであるのかのあたりをつけてきたのだと榛葉はいう。

 

次に、「問題提議のための思考実験」がある。例えば、マクスウェルの悪魔やシラードのエンジンのように、熱力学第二法則という確立されているとみられているがその根拠にはまだなにか不安を感じさせるもの、あるいは説明不要の公理とみてよいとされているが、より確信を得たいものに対して、あえてそれを破るものを提出してみたという思考実験だと榛葉は説く。これは、ある理論体系が構築されてきて、さまざまな現象を説明できるようになってくると、それまで後回しにされがちだった理論の基礎や前提、世界観などを検討したくなってくるところから考案されやすいことを榛葉は示唆する。

 

そして、文系の思考実験に多いものとして、「判断や解釈のための思考実験」を榛葉は挙げている。これは、1つの原理や法則を突き詰めていくのではなく、ある問題についてどう判断するか、あるいはどう解釈するか、判断基準の本質を浮き彫りにして、複数ある基準の関係や差異を明らかにするための思考実験だと榛葉はいう。つまり、複数ある考え方を俎上にのせて大局的に比較し、判断や解釈をするための思考実験なのである。トロッコ問題など、倫理学社会心理学政治学、医療・公衆衛生学、心の哲学など広範囲にわたって行われているという。

 

最後に、「教育のための思考実験」がある。いちおうは認められている原理・法則について、それでも疑り深い人、なかなか納得しない人、あるいは初学者に対してわかりやすく説明するための思考実験だと榛葉はいう。実際にその法則がなりたつことを、最低限の本質を頭の中で自分の思うままに動かしてみて、実際にやってみてみればそうなるしかないことを納得させて体感的に理解させるものだという。そうした確信が得られると、より高い立場から同じ現象を見られるようにもなってきて、それまでぼやけていたことろも霧が晴れるようにすっきりと理解できることもあると榛葉はいう。いわば初等幾何学の照明に用いる補助線のようなものだという。例えば、特殊相対性理論をわかりやすく示すための「光時計」などや、ギャンブラーの誤謬などがこちらに分類可能だという。

文献

榛葉豊 2022「思考実験 科学が生まれるとき」講談社ブルーバックス

思考実験とは何か1

科学的知識のような確かな知識を手に入れるためには実験は欠かせない方法の1つである。しかし、いつでもどこでも実験ができるとは限らない。実験をするのに非常にコストがかかる場合もあれば、そもそも実験をすることが現実的に不可能だと思われるケースもある。そのような場合に突破口を開く可能性がある方法として、「思考実験」がある。思考実験は、その名の通り思考のみで実験を行うことだから、どんな状況でも頭の中の想像で作り出すことが可能だという大きな長所がある。榛葉(2022)は、自然科学や社会科学などでのさまざまな思考実験を紹介しながら、思考実験について詳しく説明しているので、榛葉の解説を参考にしながら、思考実験について考えてみよう。

 

思考であればどんな状況でも想像可能だといっても、全く非現実的な状況を想定して思考実験をして、何か役に立つ知識を生み出すことができるのかという疑問も湧くだろう。であるから、そもそも実験とは何か、そして、非現実的な状況を想定する思考実験をする正当性が得られる根拠はどこにあるのかを理解しておく必要がある。まず、実験とは何かについてであるが、榛葉によれば、さまざまな方法によって普遍的な因果法則を求めてきたのが科学であり、これを精緻化してきたのが近代科学であるが、実験は、受動的な観察や観測を超えて、対象に働きかけることで法則性を見つけ出すような試みであることを指摘する。

 

例えば自然科学においては、自然界において何らかの法則性を発見するために、似通った状況で多数回の観察をすることが必要である。このような観察は受動的だが、そうした現象を、都合の良い時に起こせるようにして、繰り返し再現できるようにするために、積極的に世界に介入して現象を制御していく方法が実験である。その際に、実験では、ごく少数の変数のみが関係するように人工的に特定の状況を作り出し、特定の変数を操作して他の変数がどうなるのかを吟味する。このような実験の背後にある前提が、法則はあらゆる状況でも真であるという普遍性を持っているということと、物事は要素に切り分けられるという要素還元主義の発想である。

 

現実の現象にはいろいろな要因が影響しているはずなので、実験をする場合には、まずそれらを切り離して、1つの要因だけ検討できるようにするわけである。例えば、AとBの関係といったように基本的には2者間の単純化した法則にまで還元してそれを検証するために、そのほかの要素は極力排除する。このようにして理想化された状態を作り出し、測定を行う。このような特徴について、ベーコンは、実験というものを「自然を拷問にかけて白状させること」だと考えていたようであると榛葉はいう。ベーコンは、自然世界は迷宮のようなものだが、それを理解するための方法論は、人間界の法廷のようでなくてはならないと述べたという。つまり、魔術や超自然による説明を拝して、論証し、対話して、陪審員裁判の精神で自然の解明にあたるべきだとしたのである。

 

自然な状態で実験をすることが可能なのであれば、それは法廷での自然に対する「尋問による供述」だということができるかもしれない。しかし、量子力学における素粒子の実験のように、我々が実際には見聞きすることができないような対象を相手に、巨額な費用をかけて巨大な実験施設を建築するように普通では経験できないような状況を作って測定を行うような実験は、法廷での自然に対する「拷問による自白」ということができると榛葉は示唆する。そのような、ある意味非現実的な状況で行った実験でも、その方法で真理に近づくことができると考えるのが近代科学の心性なのだと榛葉はいうのである。

 

いやむしろ、自然の探究においては、異常ともいえる極限状態で得られた知見を現実にあてはまめることができると考え、そのような極限状態を作り出すことよってこそ真理に肉薄できるのだと榛葉はいう。都合が良い理想化された状態を作り出して拷問にかけなければ、自然は白状しないと考えるのである。そこには、法則の「普遍性」への信用がある。法則は普遍的なものだと考えるのであれば、どのような状態であっても成り立つはずである。極限状態であってもである。だから、適切に極限状態を作ってやれば、現実ではノイズに撹乱されて見えにくい法則であっても、ノイズが消去された状態で理解しやすい形でそこに姿を現すと考えるのである。

 

上記のような「極限状態を作り出す」という試みを、思考のみでやってしまおうというのが思考実験だと考えることができる。つまり、異常な状態での振る舞いにこそ自然の本性が現れるという感覚に基づき、頭の中で特定の状況を想定した後、さまざまなパラメータを想像で自在に変化させ、何らかの極限状況を作り出す。これは思考実験ならではの方法である。思考実験だからこそ、手を替え品を替え、現実にはありえないような状況も制約なしに作り出して、容疑者を傷つけることなしに拷問にかけることができるのだと榛葉はいう。

 

また、パラメータの値を自在に変えて観察することの背後には、既述の通り要因を一つ一つ切り分けることで必ず適切な探究が可能になるという要素還元論に基づく信念がある。適切に問題を切り分け、肝要な部分以外は排除する。いうならば、実験とは、要素還元論が大手を振って正当化されるような状況(理想化)を作り出してやることだと榛葉は説明する。そして、思考実験でこそ、このような威力が期待されていると榛葉はいう。因果関係の複雑な絡み合いは、必ず解きほぐせる。世界はそのようなものとしてできている。世界はそのようにして、人間にとって理解可能なものであると考えるのである。

 

ニュートンやマッハによる「バケツの思考実験」のように、極限状態さえも通り越して、不可能な状態にまでどんどん接近させたら問題がどのような様相を帯びてくるのだろうかというやり方で自然を拷問にかけて考えることもできる。このように、少数の変数からなる法則性や研究対象とする原理をわかりやすい形で「見える化」し、その本質を吟味するためにその他の要因を消去して取り除く作業を、理想化とか抽象化などという。例えば、結果に対して量的な影響を持つ要因が存在する場合、その1つないしはいくつかを思考のなかで減量していき、ついには消去してみせる。

 

思考実験をする際に、ある状況を想定したら、思考をしながら事実を変化させてみる。とりわけ連続的に変化させてみる。さまざまな要因を自在に変化させて、もとのケースとは似ても似つかない状況をつくりだすことで、そこに現象の本質を見出すことができる。これをマッハは「変化法」と呼んでいると榛葉はいう。これは頭の中で自在に理想化したり極限以降したりして原理の判定を行うもので、これは実際の実験ではなしえない実験である。

 

これまで見てきた通り、思考実験は、実際には実験や観察ができないことを、頭の中でやってみることである。目で見るように、手で操作するように体感しながら、詳細は切り捨てて極限状態での本質的な振る舞いを見定めるところに思考実験の長所がある。思考によってさまざまなものを切り捨てて理想化・抽象化することで、検証すべき法則だけを問題にできる設定にすることができるというわけである。

文献

榛葉豊 2022「思考実験 科学が生まれるとき」講談社ブルーバックス

継接ぎ型論文に陥るのを防ぐには

ビギナーの研究者が犯しがちな不適切な数量的な実証論文の1つに、変数間の説明を異なる理論を用いて説明している、すなわち、論文全体が異なる理論による変数間の継接ぎのような状態になっているものが挙げられる。これを「継接ぎ型論文」と呼ぶならば、継接ぎ型論文は明らかにリジェクトの対象となるし、継接ぎ型論文は意外と数が多くやっかいである。とりわけビギナーが作成した論文の場合、タイトルを見るだけで継接ぎ型論文であることがおおよそ判明してしまうというケースも多い。例えば、「〇〇が△△に与える影響と✕✕による調整効果」(The Effect of X on Y: The Moderating role of W)のようなタイトルである。

 

継接ぎ型論文は、例えば、実証論文全体としてはX⇒M⇒Yというモデルとデータによるその検証が行われ、理論部分において、なぜ X⇒M なのかをある理論で説明し、なぜ M⇒Yなのかを別の理論で説明している。だからX⇒M⇒Yという因果関係が成り立つのだと主張する。さらに複雑なモデルも多いが同じ原理で作成されている。なので、全体として見ると異なる理論を糊として変数と変数を継接ぎしたような論文なのである。なぜこのような論文が不適切なのか。それは、この論文でどんな現象を、どのような理論枠組みで説明しようとしているのかが不明だからである。言い換えれば、理論的貢献が全くないということである。

 

なぜ、リジェクトされつづけてしまって行き場がなくなってしまうような継接ぎ型論文が生まれてしまうのか。それはおそらく、ビギナーである研究者が、データ分析をして変数間の関係をモデルとして特定してしまってから、論文の執筆にとりかかるからだろうと推測される。学界ではこれをHARKing (hypothesizing after the results are known)と呼んでいる。HARKingがなぜ不適切なのかは以下のリンクでも書いたのでここでは説明しない。

なぜ分析結果を見てから仮説を作った論文はリジェクトされるのか - 講義のページへようこそ

 

では、継接ぎ型論文を作成してしまう過ちを犯さないようにするにはどうすればよいのか。それは、すでに決定してしまったモデルおよびそれを構成する変数の関係を説明するための理論を考えるのではなく、それとはまったく逆の順序で考えることである。つまり、研究対象としての現象を、特定の理論を用いてストーリーとして説明してみるのである。チェックすべきは、研究対象とする現象は興味深いものであるか、そして、なぜそのような現象が生じるのかを説明する理論的なストーリーの筋が通っており、かつ新規性や一貫性があるかどうかである。

 

興味深い研究対象、そしてそこで生じている現象をうまく説明する理論枠組み。これが出来上がれば、それを具体的に検証するにはどのような変数が必要なのかが特定されてくる。理論枠組みはアイデアやコンセプトで成り立っているから、抽象的なレベルでしか存在せず、具体的には目に見えないものである。そのような抽象的なアイデアやコンセプト、理論枠組みが正しいかどうか(妥当かどうか)を検証するためには、その理論枠組みによって動かされていると思われる目に見えてかつ数量的に測定できる具体的なもの(変数)の関係性を調べることが必要となる。これがいわゆる変数間の関係で表現される仮説である。これらの変数や仮説が複数特定されると、検証したい理論と対応するかたちで変数間の因果関係がモデル化される。

 

このような順序で考え、論文化していくと、継接ぎ型論文にはならないはずである。まず、研究対象となっている現象を説明するための理論枠組みとストーリーが提示され、そこから具体的な変数間の「仮説」が導き出される。これを、適切な方法論で検証するからである。このように作成された論文の理論枠組みは、決して異なる理論を継接ぎしたようなものではなく、現象全体を一貫して説明するものである。興味深い現象を説明するための一貫しておりかつ新規性のある理論枠組みやストーリーを提示するからこそ、納得感と共感を得られ、足りないところ、弱いところの改善と長所のさらなる強化を繰り返すことによってジャーナルに採択されるようになる。継接ぎ型論文では一貫した理論枠組みやストーリーがないので納得も共感も得られないのである。

 

 

学術論文とは何か、どう書けばよいのか

小熊(2022)は、できるだけどの分野にも汎用性のある「論文の書き方」を解説しており、そもそも論文とは何かという点から丁寧に説明を始めている。小熊によれば、論文とは「相手を説得する技法」から発達したものである。その際、説得力を高めるために、「どう述べるか」だけでなく「どういう形式で述べるか」が重要だというのである。とりわけ、論文は論理的に相手を説得するためのものであるから、そのために、論じるべき主題を提議し(主題提議)、証拠を挙げながら論証して(論証)、自分の主張が正しいことを再確認する(主題の再確認)、という基本的な説得の方法が内在されていると理解してよい。「序論」「本論」「結論」という構成も同じ考え方で、「私はこういう主張をしたい」「その根拠はこうである」「だから私の主張は妥当である」という展開を示しているのである。

 

小熊はさらに次のように解説する。「序論」「本論」「結論」という展開をさらにブレイクダウンするならば、「序論」において、この論文の問いは何か(目的、リサーチクエスチョン)を「主題」で提示し、この論文は過去の研究とどういう関係にあるのか(よって何が新しいのか)を「先行研究の検討」で行い、自分の立てた問いを、どういう対象を調査することで明らかにするのかを「対象」で述べ、その対象をどのように調査するのかを「方法論と方法」で説明する。そのあと「本論」において具体的な調査内容を書き、それを論理的に組み立てて、主題に対する答えを論証する段階まで導く。そして「結論」で、本論で調査した結果を再確認し、分析し、主題に対する答えを述べる。そして最後に「レファレンス」として、自分が依拠したり、引用したり、批判したりした過去の研究、文献などを一覧にする。

 

さらに、現代の科学的な学術論文の書き方を理解するためには、そもそも学問とは何か、科学とは何かを理解しておく必要があることを小熊は指摘する。そもそも「学」「学問」とは、人類の協同作業を通じて人類の共有財産としての知識を発展させるものであることを抑えておくべきである。科学は、このような学問の発展のための説得や対話の技法として発達した側面があると小熊はいう。なぜならば、近代科学が、論文を公表して、相互批判や追検証を行いながら発達してきたからで、公表する論文はそれを可能にするものでなければならないのである。つまり、論文を公表するということは、相手を説得することを想定して書き、読んだ相手が違う意見があるのであれば、根拠を示しながら反論する。そうやって議論をしながら科学が発展するわけである。その際、お互いに前提を共有して、論拠を確認しながら、論理的に対話していく。

 

上記より、科学的進歩には、「公開」と「追検証」が必要不可欠であることがわかる。どういうプロセスで調査したのかを論文で公開し、それに異論があれば追試、追検証して批判し、その繰り返しで定着したものをみんなで共有する。このプロセスが可能となるように論文を書かなければならない。とりわけ、誰が追試しても納得する結果が得られるのであれば、それが人類の共有財産になるわけであるから、行った調査の再現性が可能となるように論文を書かなければならない。社会科学の論文においても、同じようにフィールドで情報を集めるジャーナリストが書くような記事や本との大きな違いは、これまで他人が築いてきた体系のどこが足りないのか、自分はどこに貢献したのか、ということを書くために、すべての過程が公開され、それをもとに他の人が同じ主題や同じ対象をより深く探求してもらうための協同作業の一部だという点である。

 

とりわけ実証研究において、実際に研究を行い論文を執筆する際に混同しやすいのが、「主題」と「対象」の違いである。小熊によれば、主題は「抽象的な問い」で、対象は「具体的に調査できるもの」である。言い換えれば、実証的な論文は、「見たり聞いたりできる対象」を調査することを通して、「見たり聞いたりすることのできない主題」を探求する営みであるといえる。人文・社会科学ではこの区別があいまいになりやすいと小熊は指摘する。自然科学でいえば、モノは見えるが、法則は見えない。エネルギーや重力の法則は、目には見えない。それを「主題」として、目に見える物体の運動という「対象」の観測を通して探求していくということである。具体的に調査できる対象から、普遍的な真理を探求する。ここで、実証的に調べる対象を調査し、読者が追検証をできるような研究でなければ、科学にはなりにくいということである。

 

また、小熊によれば、「学」「学問」とは、ある前提をもとに論理的な認識を行うことであることから、前提が変わると学問が変わることを理解しておく必要がある。そして学問が変われば、主題の立て方や方法論も変わってくる。とりわけ人文・社会科学では、前提の異なるたくさんの学問体系がある。例えば、数値化や因果推論を重視する学問体系もあるが、社会規範の構築過程の記述を重視する学問体系もある。人間の営みを扱う学問でいま目立っているのは、効用の最大化(人間は自分の満足を最大化するように行動する)で人々の行動を説明する学問体系と、人間が相互関係の中で構築した「社会規範」で人々の行動を説明する学問体系だと小熊はいう。学問体系が異なると前提が異なるために対話が難しい。そのため、論文でも「先行研究の検討」を長くとることで、自分が貢献する学問体系を示す傾向があると小熊は指摘する。

 

そして、論文全体が、読者が追検証できる事実や論理の集まりであるから、著者が独自に行った調査のみならず、そのプロセスとしての前提や事実の確認についても、追検証できなくてはならない。それを可能にするのがレファレンスであるから、レファレンスは必須であると小熊はいう。先行研究のレファレンスを示せば、自分がどの学問体系に貢献しているのか示せるし、書いてあることのうち、どこが他人の調べたことや他人の意見なのかが明記されれば、自分が調べたことや自分の意見がどの部分なのかもはっきりする。そして、前者については、もとの論文や資料を読者がチェックして追検証を行うことが可能となるわけである。

文献

小熊英二 2022「基礎からわかる 論文の書き方」(講談社現代新書)

 

質的比較分析(QCA)の直感的理解

近年、経営学の分野で、質的比較分析(QCA)を用いた研究が徐々に増えている。しかし、それらの研究で行われている分析がそもそも何をやっているのか、そしてなぜ「質的比較分析」というのか、直感的には分かりにくい。質的研究と言っても、集合論ブール代数などかなり数学的であるし、そもそも数字を使って分析する。であるから、数量的研究といった方が良いのではないかと思うかもしれない。質的比較研究は、質的研究と数量的研究の中間のようなものだという人もいる。今回は、質的比較研究の意味を直感的にわかるよう、Oana, Schneider, & Thomann (2021)の記述を参考に説明を試みる。

 

まず、数量的研究は数字や数学を使う研究であり、質的研究は数字や数学を使わない研究であるという素朴な理解は間違っているということを理解しておこう。質的比較研究のように、質的研究でも数字や数学を使うことを踏まえ、質的比較研究が、数量的研究とは言えないという点、数量的研究とどう違うかという点について説明しよう。ポイントは、度合いとか量を測っているという意味で数字や数学を用いているか(数量的研究)、それとも、様相が異なることすなわち質的に違うことを表現するために数字を用いているか(質的比較研究)である。

 

数量的研究の特徴をごく直感的に説明すると、ある要因Xが、結果であるYにどの程度(どのくらいの強さで)影響に与えるかを、それぞれの変数の量を測って調べようというものである。重回帰分析を想像してみるとよい。重回帰分析のある独立変数Xの偏回帰係数は、他の独立変数の値が一定のときに、当該独立変数Xを1単位増加された場合、Yが何単位増加するかを示す値である。よって、どちらかというと独立変数であるXに焦点を当て、それに従属するYという変数との関係において、Xが増減する度合いと、Yが増減する度合いを比べているのである。

 

一方、質的比較分析にはそのような量を測って比べるという特徴がない。質的比較分析で扱う数字は、量的な度合いではなく、質的に異なるかどうかをコード化しているものと理解すればよいだろう。例えば、0と1で表現したときに、それは両者を識別するために導入した記号であって、1のほうが0よりも大きいという意味はないわけである。数字は量ではなく記号として認識されるので、数学的演算は主に集合論をベースとする論理演算になる。数学で勉強するベン図を想像してもらえればよいだろう。どちらかの集合が別の集合を包含しているとか、部分的に重なっているとかの特徴に基づいて、かつ(and)、もしくは(or)、否定 (not) の関係を用いて、ド・モルガンの法則などを用いて複数の要素からなる様々な組み合わせを表現するわけである。

 

ではなぜ、質的比較分析で集合論や論理演算を用いるのだろうか。それは、質的比較分析の目的が、数量的研究の目的とは異なり、Yという結果をもたらす要因は何か(どんな組み合わせか)を理解しようとすることからくる。そこに度合いとか量的な問いはなく、「何が原因か」という問いのみがある。数量的研究が、Xという要因に焦点をあてるのに対し、質的比較分析では、結果の有無(Y)に焦点を当てる。ここでも、量的な結果の度合いではなく、質的な結果の有無であることに注意しよう。そして、結果の有無の原因となりうる要素を複数想定して、それが複雑に絡み合って結果が起こるということを数学的(集合論的、論理学的)に解明しようとするのである。

 

論理演算としてのかつ(and)は、ある要因とある要因が結びつくと結果が生じるといった「因果結合性」に深く関連する。もしくは(or)は、ある要因でも結果が生じるし、別の要因でも結果が生じるという「等結果性」と深く関連する。そして否定(not)は、結果が生じるための条件と、結果が生じないための条件、たとえばある要素の有無、別の要素の有無の組み合わせのパターンが異なっているという「因果非対称性」と深く関連している。そして、結果の集合が要因の集合を包含しているときは、その要因があると常に結果が生じることを意味するため、十分条件に対応し、要因の集合が結果の集合を包含しているときは、結果が生じているときにはかならずその要因が存在している(その要因が存在していないと結果が生じない)ため、必要条件に対応している。このように質的比較分析では、複数の要素が複雑に絡み合って結果を生み出しているというメカニズムを解明しようとするのである。

 

では、質的比較分析の「比較」とは、何を比較しているのか。これは、質的に区切った要素による集合同士を比べているということである。例えば、結果が生じたケースと、結果が生じなかったケースは、別々の集合なので、この2つの集合を比べて何が違うのかを把握する。同様に、ある要素が生じているケースと、ある要素が生じていないケースは、別々の集合なので、これらを比べる。あるいは、1つ1つのケースでいうと、それらのケースは異なる要素が含まれる集合だと考えられる。それらの集合を比較する、といったイメージでどうだろうか。量ではなく、質的な違いを見ているということは、違いは比較することで初めてわかることだから、質的比較分析というのであろう。

文献

Ioana-Elena Oana,Carsten Q. Schneider, & Eva Thomann 2021. Qualitative Comparative Analysis Using R (Methods for Social Inquiry) Cambridge University Press

経営学における因果複雑性と質的比較分析(QCA, fsQCA)

田村(2015)によれば、経営学の主たる目的は経営事象にまつわる因果関係の解明であるが、経営学で明らかにしたいような法則性というのは、自然法則のような普遍法則ではない。まず、対象となる因果関係が該当する場所と時間の制約があり、その妥当性も短時間で変化する。例えば、昨日まで成功を導いたやり方が今日は失敗のもとになるということが起こりうる。であるから、経営学というのは、多くの自然科学のような普遍法則を探求する科学ではなく、頻繁で急速な技術革新や市場の変化などによって比較的短時間のあいだに経営を成功に導く因果関係といった経営法則が変わっていくことを前提とする「法則の変化」を追求する科学だと田村は主張する。

 

さらに経営学が対象とする経営現象の特徴として重要なのが、経営の「結果」が、ごく少数の個別条件で生み出されることが稀であるということだと田村はいう。経営現象では、多くの原因条件が存在し、それらの間の「複雑な」関係を通して「結果」が生じる。このような「因果複雑性」が経営学が扱う多くの現象に見られる特徴であるが、これは計量経済学で扱うような一般的な統計分析では把握することが困難である。統計的な因果分析のほとんどは線形加法モデルに基づいているが、線形加法モデルでは、各個別条件が他の条件とは独立に(他の条件が一定であるときに、他の条件をコントロールした際に)結果に影響することを前提としている。個別条件と結果との関係に焦点を当てるようなアプローチは因果複雑性を有する経営現象の解明には不向きだということなのである。

 

田村によれば、因果複雑性を生み出しているのは、等結果性(equifinality)、結合因果性(conjunctual causation)、因果非対称性(causal asymmetry)である。等結果性とは、「同じ結果」が異なる原因条件によって生み出されるということである。例えば、A, B, C, Dという条件があったときに、AとBの組み合わせでも、CとDの組み合わせでも同じ結果を生み出すというような場合である。結合因果性とは、ある個別条件が単独では結果を生み出さないが、他の個別要件と組み合わさると結果を生み出すことができるような場合である。先の例でいえば、Aは単独では結果を生み出さないが、AがBと組み合わさると結果を生み出すから、結合因果性が示されている。因果非対称性とは、例えば、十分条件の場合のように、ある原因が結果を生み出す(十分条件)からといって、その原因がないと結果が生み出されないわけではない(その原因がなくても結果が生み出される場合がある=必要条件でない)というように、原因の有無(または度合い)と結果の有無(または度合い)の関係が対称でないという特徴をもつ関係である。

 

上記のような因果複雑性を分析する場合には、伝統的な確率・統計ではなく、集合論とそれに関連するブール代数を用いることが有効だと田村は説明する。なぜならば、必要条件や十分条件が絡む複雑な因果関係の場合は、互いにどのような包含関係にあるかを検討したり、調査データとして扱う各事例を、複数の要因の集合として理解することで、それらの要因の有無や組み合わせと結果との関係を分析しやすいからである。そして、高校数学Aで習うド・モルガンの法則などの論理演算を用いることによって集合の和・積・否定などを演算できるため、それによって結果と複数の要素間の複雑な因果関係を分析することが可能だというのである。

 

これらの集合論や論理演算を駆使した因果関係の理解をコンピュータを用いて分析可能としたのが、質的比較分析(QCA)という手法である。そして、質的な違いに基づいて特定の要因を2分する(0か1で表す)ものに基づくクリスプ集合を扱う伝統的なQCAのみならず、2分されないファジーな分類に基づくファジー集合を扱うファジーセット質的比較分析(fsQCA)も利用可能である。先に説明したとおり、QCAは集合論を基礎においており確率・統計を基礎とする統計分析とは基本的な考え方が異なっているため、確率・統計の推論で前提としているような大規模サンプルを集める必要がないという特徴がある。これは、十分なケースを集めることができない経営学の事例研究などにもフィットした分析手法だといえる。

 

つまり、QCAの主眼は、伝統的な統計分析のように大規模サンプルによって少数の要因と結果の関係を確率・統計の知見に基づいて推論するものではなく、少数のサンプルであっても、各事例に含まれている複雑な要因の絡み合いを考慮に入れ、集合論をベースにこれらの要因と結果の関係を推論するというメカニズムによって因果関係を解明していこうとする分析なのである。また、普遍性や汎用性の高い法則を見つけ出すために、変数を厳選してできるだけシンプルで再現性の高い研究結果を生み出すことを意識した分析を行うのではなく、結果に与える法則性や要因の組み合わせもあくまでテンポラルかつ特定の場所でのみ適用可能なものであるという前提のもとでさまざまな要因を考慮し、それらの因果的絡み方の様相を検討するために分析を行うというものであるから、冒頭に上げたような自然科学とは性質が大きく異なる経営学での現象理解に適した方法であるとも言えるだろう。

文献

田村正紀 2015「経営事例の質的比較分析: スモールデータで因果を探る」白桃書房