則ち天を以って天に合す

中野(2007)は、荘子が職人の仕事に深い理解を持っていただろうという。


業(わざ)というのは、修行に修行を重ねて、自在の境地に達するだけでは足りない。心を純一にし、無心、無為の境に至り、去私則天の境地に立つことである。私心がなくなれば、自分は私であって私を超えたものになる。これは「天をもって天に合する」ということである。この状態で、修行した業が最も自在にふるわれる。


野球で好調な名選手も、からだがおのずから反応する。考えもせず、狙わず、なるがままに任せており、からだは自分のものであった自分を超えた何かになっているという。