ベルグソンとドゥルーズの生成変化の哲学

斎藤(2022)は、フランス現代思想のキーワードが「差異」であることをふまえると、『創造的進化』などの著作によって時間の流れを意味する「持続」を鍵概念とした哲学を展開したベルグソン現代思想の汲めども尽きぬ水脈になっていることは間違いないといい、ベルグソンの「持続」の哲学は、ドゥルーズの思想に決定的な影響を与えたという。この、ベルグソンドゥルーズのつながりで重要なのが「流れ」の概念である。以下、この2人の哲学者のつながりをもう少し詳しく説明しよう。

 

斎藤によると、ベルグソンの哲学は「生そのものへ」と呼べるもので、生きることの本質を「持続」というものに求めた。持続とは、時間が切れ目なく流れていくこと、すなわち時間の流れを意味する。例えば、私たちが音楽を聴くとき、それは楽譜に書かれているような切れ目のある一音一音を聴いているのではなく、さまざまな楽音が1つに溶け合った「音の流れ」を聴いている。私たちが耳にする旋律は、それぞれの音を単独で切り出せるわけでなく、ある幅をもった音の流れとして有機的に溶け合っているというのである。このように、現在の状態と以前の状態を区別せずあるがままに生きているときの意識のあり方を「純粋持続(純粋な内的持続)」とベルグソンは呼ぶ。

 

ベルグソンは、「持続」を鍵概念とし、世界を静止画ではなく、流れとして動態的に記述していく哲学を展開したわけである。そして、ベルグソンにとっての自由とは、持続を生きること、それ以前の状態と溶け合いながら、新しい自分をまるごと生き続けることに他ならないと斎藤は解説する。

 

『創造的進化』の中でベルグソンは、生命もまた大きな流れであり、生命は無機的な物質の抵抗を突き破って有機化していくことで、多様な形態を獲得していったと斎藤はいう。その方向に決まりはなく、弾みによって跳躍するかのように進化を遂げていく。こうした生命の創造的な力をベルグソンは「エラン・ヴィタール(生命の跳躍)」と呼んだ。生命の進化もまた絶え間ない運動であり、その運動のなかで生命は過去の記憶を使って新しい生命の秩序を創出している。ベルグソンにとっては、生命の進化も、個体が生きることも、どちらも持続の中で創造的な生成を実現していくプロセスにほかならない。

 

斎藤によれば、ドゥルーズは上記のベルグソンの哲学を受け継ぎ、生成変化の哲学として発展させた。例えば、ドゥルーズによれば、同一性は「生成変化」のプロセスで生じる1つの効果にすぎない。生成変化とは「絶えず何かになっていく(becoming)」「変容していく」という意味である。永遠に同じである事物などないということである。ベルグソンがこの世界を切れ目のない流れととらえたのに対し、ドゥルーズはそれを「差異」という概念で捉えなおした。これは、諸行無常と近い考え方である。世界は常に転変していて、何一つといして「同じ」である状態などない。構造主義だと、がっちりとした「構造」がイメージされるのに対し、世界を差異ととらえれば構造もまた仮そめのものにすぎないわけである。

 

またドゥルーズは、ガタリとの共著『アンチ・オイディプス』で構造主義の一角を占める精神分析の批判を行ったと斎藤はいう。生成変化を生み出していく運動機構を「機械」と呼び、この世の中の一切合切は、機械の運動や機械同士の連結・切断から生まれてくると考えたという。人間の身体も様々な機械の組み合わせであり、人間の欲望を生み出したり編成したりするものをドゥルーズ=ガタリは「欲望機械」と呼んだ。欲望機械は身体の諸器官で複雑に絡み合いながら、連結や切断によって絶えず欲望を生産し、欲望の流れを形作っていく、この欲望は、規制を超えてあちこちへと分裂的な動きをするものだと考えられるのだが、精神分析は、欲望を家族中心的な枠組みに押し込めるのだと指摘したのである。

 

斎藤は、ドゥルーズ=ガタリ精神分析と資本主義機械が共犯関係にあることを指摘したという。資本主義機械は極限まで利潤(余剰価値)を生み出そうとする。そのためであれば、さまざまな規制(コード)や国・地域の境界もやすやすと乗り越える。規制撤廃とグローバリゼーションをもたらすという意味である。そして、資本主義機械が作動し続けるためには、欲望を資本の公理系という資本の法則に従ってカスタマイズする必要がある。これを可能にする格好の領域が、精神分析が想定する核家族だというのである。精神分析は欲望の問題を家族という枠組みに無理やりあてはめて解釈しようとしており、これは、欲望を一定の向きに方向づけしていることに他ならないというのである。資本主義が延命するために、エディプス・コンプレックス仮説が想定するような核家族を生み出したというわけである。

 

ドゥルーズ=ガタリは、『千のプラトー』において、欲望は本来、脱コード的、脱領域的であって、規則や囲い込みを乗り越えていこうとするが、この不定形で多様な欲望の流れを「スキゾフレニア(分裂症)』に見出し、資本主義機械の部品となってせっせと働き、せっせと投資する「パラノイア(偏執症)」と対置させたと斎藤は解説する。そして、ノマド遊牧民)的な生き方に、資本主義機械に絡めとられない手がかりを求めたという。斎藤は、ドゥルーズ=ガタリが、「存在(being)」から「生成変化(becoming)」への思索の転換を試みたことを示唆するのである。

文献

斎藤哲也 2022「試験に出る現代思想」(NHK出版新書 686)