動的平衡という「流れ」

福岡(2017)は、分子生物学の観点から、生命というのを分子レベルでとらえた場合に、デカルト的な機械論生命観とはまったく異なる様相を示していることを説明している。動的平衡という流れとしてとらえるそのような生命観とは、どのような姿なのかについて、以下のように論じている。

 

「生命は行く川のごとく流れの中にあり、私たちが食べ続けなければならない理由は、この流れを止めないため」と福岡はいう。そして、分子の流れが、「流れながらも全体として秩序を維持するため、相互に関係性を保っている」という。個体は、感覚としては外界と隔てられた実態として存在するように思えるが、ミクロのレベルでは、たまたまそこに密度が高まっている分子の緩い「淀み」でしかないのである。

 

福岡によれば、生命が、分子レベルにおいてはなおさら、循環的でサステナブルなシステムであることを最初に見たのは科学者シェーンハイマーである。私たちの生命を構成している分子は、プラモデルのような静的なパーツではなく、例外なく絶え間ない分解と再構成のダイナミズムの中にあるという発見であったのである。つまり、生命を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取された分子と置き換えられている。身体のあらゆる組織や細胞の中身がこうして常に作り変えられ、更新され続けている。

 

可変的でサステナブルを特徴とする生命というシステムは、その物質的構造基盤、つまり構成分子そのものに依存しているのではなく、その流れがもたらす「効果」であるのである。要するに、環境は常に私たちの身体を通り抜け、あるいは身体自体も通り過ぎつつあり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れの中で、私たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。その流れ自体が「生きている」ということなのである。

 

生命が「流れ」であり、私たちの身体がその「流れの淀み」であるなら、環境は生命を取り巻いているのではなく、生命は環境の一部、あるいは環境そのものであるとさえ福岡はいうのである。機械論的な自然観は線形的であるのに対し、循環する流れは非線形的である。その1つの象徴が、渦巻である。自然界は渦巻の意匠に溢れている。渦巻は、おそらく生命と自然の循環性をシンボライズする意匠そのものなのだ。私たちが線形性から非線形性に回帰し、「流れ」の中に回帰していく存在であることを自覚せざるにはいられないと福岡はいうのである。

 

福岡の動的平衡としての流れを理解する限りにおいては、かろうじて物質すなわち「モノ」として理解できる分子の動きというレベルで見た場合、生命は、物質的基盤よりも、分子の流れによって生じている「コト」としてとらえられる。さらに思考を突き詰めて、分子よりもさらにミクロな素粒子の世界から眺めるならば、循環している分子でさえ、物質という「モノ」としてとらえることが困難となり、波と粒子の相矛盾する性質を有する何ものかの関係性という「コト」としてとらえるしかなくなる。そうなると、生命というものは「コト」としてとらえるのが適切だということになるのだろう。

文献

福岡伸一 2017「新版 動的平衡: 生命はなぜそこに宿るのか」(小学館新書)