無限の過去から無限の未来へと流れていく直線的時間という幻想

私たちは、時間というものが、無限の過去から無限の未来に向けて一方的に流れていくものだと思っている。これは、年間を365等分した直線状の時の流れが、過去・現在・未来へ連綿と継起すると想定される通常の時間規制である。そして、それは人間が存在するしないにかかわらず真実であるとさえ思うであろう。古東(2011)は、こういった線形状の時間表彰を「リニア・タイム」と呼び、これは、人間が後天的に作り出す時間意識・時間感覚にすぎず、人間が作り出した文化的産物にすぎないと指摘する。具体的にいえば、地球が自分のまわりで一回自転する空間運動を「1日」という時間単位としたように、空間運動を「時間」として表現したものにすぎないのだという。


歴史的には、とりわけ産業革命以降、工業化社会の到来と同時に時刻社会が生み出され、人間が、時計を基準とする「時刻制度」に縛られる生活をするようになったのことが契機として大きいことを示唆する。工業化社会において機械はその稼働率や費用対効果を高めるために時間規律を要求し、人間がそれに従うことで結果的に機械が人間を支配しはじめたのである。古東は、リニア・タイムとしての「世界時間」が地球全体に君臨するようになったことで、世界中の人々の生活が、直線的時間によって管理(支配)されるようになったという。


古東によれば、時間(計測時間・時刻)は、しつけと同じように、人間が後天的に教え込まれた「観念」もしくは「習慣的約束事」にすぎない。時間は人生を支配する。現代社会の子供たちは早期に時間を「学習」し、時計とカレンダーが作り上げるシンボル体系を読み取り、それに服従するしつけ(自己制御法)を学ぶ。そもそも、人々がそれぞれ気の赴くまま生きれば社会はばらばらな行動の錯綜現象となり、統制がとれない。社会をある一定の方向で秩序立ててまとめ上げていこうとするならば、「統制原理」が必要なのである。そこで「ニュートラルな顔をした」統制原理としての「世界時間(リニア・タイム)」は好都合なのだというのである。時間は、大権力のように上空飛行して力づくで支配するのではなく、私たちの内部に「教養」や「常識」となって、ごく自然なことにように忍び込むので、抵抗も少なく、人々の社会生活のおおもとのところを支配する大きな原理となっているのだという。


私たちは、いったんシンボル体系としての「時間」を学習すると、「時間」は学習しなければ存在しない観念だということを忘れてしまうと古東はいう。線形時間概念(リニア・タイム)が自然に存在するものであるかのように思い込んでしまう。それは、人為的に構想された約束事のパラメータであることを、まったく忘れてしまう。だから、時計などの計測器をつかって、時間記号に従って時刻を読み取ったり、時刻に合わせて行動を調整することがごく自然の所作となるわけである。自分の人生がリニア・タイムに支配されていることを意識することなく。古東はこれを、そのシンボル体系の狡猾さ、優秀さと表現する。


世界時間(リニアタイム)によって支配される私たちは、慌ただしい現代社会において、「いまこの瞬間を生きる」ことを忘れ、あるいは先送りし、未来に約束されたもっと大きな富を追い求めるという「前のめり人生」「前望構造」もしくは「ドロドロジー」に陥ることになる。未来の「いつかどこか」に力点を生活の力点を置き、いまここに湧き上がる喚起を我慢するのが資本主義の根幹であり「貯蓄精神・備蓄思想」であり「瞬間抹消思想」である。つまり、現代社会に生きる私たちは、過去から未来に直線状に流れるリニアタイムを前提とし、未来に向かって競い走るよう強制されて生活しているわけである。それは、「今ここのリアルの生」を軽視し、生を生として経験しないことでもあると古東は示唆する。私たちはいつも「いつかどこか」のために、日々をやり過ごしているわけである。そうではなく、ほんとうは最も大切な「今ここ」の充溢をかみしめる、「今ここ」に佇む。この瞬間を生きることの重要性を古東は力説するのである。