AMJ論文に学ぶトップジャーナル掲載のための研究方法と論文執筆スキル(質的研究編4)

本編では、AMJに掲載された質的研究論文であるKim et al. (2019)を教材として、質的研究をトップジャーナルに載せるための研究方法や論文執筆方法について解説している。今回は、前回の続きとして序論の内容について解説する。

序論の後半部分

前回もそうだしこれまでも何度か述べてきたことだが、「序論はミニ論文としての役割も担っている」というのは、数量的研究であろうが質的研究であろうがAMJのような経営学系のトップジャーナルでは共通した認識なので、これはしっかりと頭に入れておきたい。であるから、前回説明した序論の前半では、テーマの重要性、先行研究が抱える問題、それに基づくリサーチクエスチョンについて記載しており、序論の後半では、どういった対象に対してどんな調査をしたのか、その結果どんな発見があって、そこから私たちは何を学べるのか、本研究がどう経営学に貢献するのかが簡潔に記載されている。

 

まず、Kim et al. (2019)は、東アフリカの紅茶生産組織が苦境から抜け出すためにフェアトレード認証を取得したというケースのエスノグラフィーを実施したことを述べている。そして、このケースは、リサーチクエスチョンで挙げている「現在を我慢することで未来への持続性を獲得するといった、現在と未来の間でのリソースを配分するといった基本的な問題を設定することがそもそも困難な組織、つまり、未来に投資する余裕など一切なく、今を我慢することが不可能な組織でどうすればサステナビリティが促進されるのだろうか」といった問いに答えるための「極端なケース」であると述べている。この点は大変重要で、質的研究の多くは「極端なケース」を志向する。数量的研究のパラダイムでいえば、平均から乖離した「外れ値」のようなケースをあえて選ぶ。数量的研究の多くでは外れ値は本質から外れた極端な「誤差」であるが、質的研究で選ぶ「極端なケース」は、そうでない平凡なケースにも内包されているような本質がむき出しになっていて特定しやすい可能性があるのである。極端だからこそ、平凡な事例にも内在する面白い発見が得られる可能性が高いわけである。

 

とはいえ、経営学の研究論文で、東アフリカの紅茶生産組織のエスノグラフィーというのは初めて読んだ読者はかなり意表を突かれると思われる。この論文を掲載しているAMJは経営学のジャーナルではなくて社会学とか文化人類学のジャーナルなのかと目を疑ってしまうかもしれない。例えば、この地域で行った研究が日本の大企業の経営にどんな示唆をもたらすのかについてイメージがわかないのではないだろうか。しかし、Kim et al. (2019)は、このエスノグラフィー研究を通して、現代企業の経営にとって示唆に富むような発見をしっかりと行っているのである。このように、経営学の多くが一般的にイメージするような現代企業とかけ離れた研究対象に対するエスノグラフィーの結果から、現代の組織が重要なことを学ぶことができることを示したという意外性もこの論文の醍醐味である。

 

次に、Kim et al. (2019)は、東アフリカの紅茶生産組織のエスノグラフィーで何を発見したのかについて述べている。これがこの論文で一番重要なポイントであるわけであるが、要約でも、序論でも、もったいぶることなく、発見を簡潔に記述している。その発見とは何かというと、東アフリカの紅茶生産組織の人々がもっている時間概念が、経営学で想定していたりフェアトレード認証側の人々が想定している時間概念とは大きく異なっていることが分かったということである。どう違うのかというと、経営学におけるサステナビリティ研究やフェアトレード認証側の人々の時間概念は、「いまこの瞬間」といった意味での「現在」が、それとはクリアに切り離された「未来」と対比され、二項対立的に理解されるというものである。これは私たちも自然にもっている時間概念で、現在と未来が本質的に切り離されているからこそ、手持ちのリソースを現在と未来にどう配分するかといったリソース配分のトレードオフに関する問いが成立するのである。つまり、現在と未来を天秤にかける発想だからこそ、今を我慢して未来のために使うという考えが出てくるのである。

 

しかし、Kim et al. (2019)は、東アフリカの紅茶生産業者の多くが持っていた時間概念はこれとは異なっていることを発見したのである。彼らにとって「現在」は、幅をもった「長~い現在」だったのである。そうすると、彼らにとって現在と未来の二項対立は無意味である。リソースが欠乏している彼らにとって、現在にしかリソースを使えない。けれども彼らの「現在」は、「今この瞬間」という意味ではない。少なくとも1年くらいの幅がある「現在」である。だとすると、彼らの立場からすれば、「現在必要なことにリソースを使って何が悪い?」ということにならないだろうか。私たちやフェアトレード認証側が自然に考える「現在リソースを使うことを多少我慢しなければ将来に投資できないからいつまでたってもサステナビリティなんて実現しないよ」というような若干おせっかいな発想がそもそも間違っているということにならないか。彼らに現在を我慢せよと指南すること自体が非現実的で間違ったアドバイスだということがこの発見から分かるのである。

 

東アフリカの生産業者がサステナブルになるために必要なのは、現在を我慢して未来にリソースを回すことではない。彼らの時間概念でいうところの「現在」に必要なことにリソースを使うことはまったく悪くない。ただ、そのリソースの使い方を、できるだけ効果が持続するように使えばよいのである。その1つの考え方は、リソースを「流れ」として捉えることである。固体のようなリソースをこの瞬間にドンと置くのではなく、流体としてのリソースを、「長〜い現在」に対して持続性が出るようにうまく流し込んでいくというイメージである。このように考えるならば、現在と未来の二項対立やトレードオフを持ち出す必要などなく、現在のリソースの使い方を工夫すれば、それがサステナブルな効果をもたらすことができるということなのである。

 

さて、Kim et al. (2019)が実践した東アフリカの紅茶生産組織がどのようにサステナブルになれるかを追究した特殊な研究から、日本などの先進国や新興国における現在の企業組織が何を学べるというのか。それは、よく考えてみれば、貧困に苦しみ、今にしかリソースを使えない東アフリカの紅茶生産組織のサステナビリティの課題は、業績不振に陥り、倒産寸前であったりして未来に投資する余力などまったくないような会社のサステナビリティ経営の課題とも似ていることが分かるだろう。そうすれば、倒産寸前で存亡の危機に陥っている会社に、いまを我慢して将来に投資をしましょうというアドバイスがナンセンスであることが分かるし、Kim et al. (2019)らが発見したサステナビリティに貢献する施策が、このような倒産寸前の企業に対するアドバイスの大きなヒントになることも想像に難くない。

 

また、この研究は、サステナビリティというテーマについて重要な示唆をもたらすだけではない。私たちが無意識的に、現在と未来を天秤にかけるような考え方をしていることに気づかせてしまう。それはある意味、西洋文明によって作られた二項対立的な時間概念であって、それを時間の本質と考えてはいけない。二項対立というのは西洋の発想で、アジアはもともと全体的な視点で物事を見るし、今回の研究でアフリカでも現在と未来が一体化したような「長~い現在」という時間概念を持っていることが分かった。むしろ、私たちが無意識的にもっている「現在」と「未来」を対比させる時間概念こそが、世界的にみて非常に極端で外れたものなのではないかということも考えてしまう。そんな哲学的なことに思いを馳せるようなきっかけをつくってくれる研究でもあるのである。

 

序論の最後の段落では、本研究の貢献について述べられており、大きく2つの貢献があると簡潔に書かれている。1つ目は、通常私たちがイメージする「この瞬間としての現在」に対して、「長〜い現在」という、現在という時間概念に幅があるケースを明らかにしたことで、深刻なリソースの欠乏に直面する組織に対する示唆を導いたことだとしている。2つ目は、サステナビリティの考え方には、この瞬間としての現在と、それとは切り離された未来とのリソース配分のトレードオフという前提があることを暴き出したことである。そしてこれは、「この瞬間としての現在」という時間概念に立脚しているのだが、「長〜い現在」を前提とすると必ずしもこのトレードオフとしてサステナビリティを考える必要がないということである。

 

序論なので、本研究の貢献については1段落であっさりと記載されているが、実はこの研究が経営学の学術研究にもたらすインパクトは莫大なものである。そのことについては次回で述べることにする。

文献(教材)

Kim, A., Bansal, P., & Haugh, H. (2019). No time like the present: How a present time perspective can foster sustainable development. Academy of Management Journal, 62(2), 607-634.