時間は未来から過去に流れる

多くの人は、時間は過去から現在へ、そして未来へと流れるというように考えるのではないだろうか。しかし、主に認知言語学的視点から時間を考察する瀬戸(2017)によると、このイメージは錯覚である可能性が高い。むしろ、様々な認知言語学的証拠によって、われわれにとっての時間は、未来から現在へ、そして現在から過去に流れていく存在であることが確認できることを瀬戸は示してくれる。つまり、空間的にとらえるならば、未来は後ろ、過去は前であり、時間は、後ろから前という方向で未来から過去に向けて流れるものなのである。以下に、その証拠を示していこう。


まず、未来の時間は遠いところからどんどんと私たちに近づいてくる。例えば、平成の終わりはまだまだ遠いと思っていたが、気がついたらもうすぐやって来ることに気づく。春が来ると、もうそこに平成の終わりがある。そして、現在の時間はすぐに過去となり、過去となった時間はどんどんと遠ざかっていく。そもそも、未来とは「未だ来ざるもの」、すなわちまだであるが、いずれ、こちらにやって来るものである。過去とは、過ぎ去っていくもの。どんどんと遠ざかっていくものである。前後関係でいうならば、未来は「10年後」というように後ろであり、過去は「10年前」というように、前である。


しかし、私たちと時間との関係でいくと、時間は常に未来が後ろで、過去である前に向かって流れるのであるが、それを認識している私たちは、前をむいて未来を見ており、後ろむいて過去を振り返る。時間を川の流れにたとえ、橋からその川を私たちが眺めているのを想像してみると、未来は私たちの「前」にある。過去は私たちの「後ろ」にある。私たちにとっての前から、未来が流れてくる、そして私たちの後ろに向かって流れていくのである。時間本位で見るのと、自己中心的に見るのとでは、当たり前ではあるが前後が逆である。ここに、時間が過去から現在、未来に流れていくという錯覚の原因がありそうであることを瀬戸は示唆する。


別のたとえとして、各時刻を電車の駅として、私たちが電車にのってその駅をつぎつぎと通過していく様子をイメージしよう。私たち自身は、電車として、過去から現在、そして未来へという方向で進んでいるのである。そして、相対的に見れば、鉄道の各駅である各時刻は、私たち電車からみて前の方向からどんどんこちらに近づいてきて、特定の時刻(駅)を通過すれば、その駅は私たちの後ろにどんどん遠ざかっていく。もうおわかりのように、過去から現在、未来へと進んでいくのは私たちであって時間ではないのである。相対的に、時間は未来から現在へ、そして過去へと流れていく。川の流れのたとえも、電車のたとえも、例えに過ぎないので、時間と私たちのどちらが止まっており、どちらが動いているかという問いは意味がない。要するに、時間とそれを認識する私たちの位置関係が相対的であるということなのである。


もっとも、「時間が流れる」というのは、時間を流れに例えるメタファーの働きにすぎないことを瀬戸は示唆する。当然、時間には他のメタファーもある。もっとも頻繁に用いられるのが、「時は金なり」とか、「時間がなくなる」といったような、時間を測定可能な資源と捉えるメタファーであり、そのほかにも、「時間が癒してくれる」とか、「時間に追われる」といった擬人的なメタファーもある。要するに、時間という抽象概念は、メタファーなくしては理解できるものではなく、どのメタファーを使うかによってその特徴も異なってくるのだといえよう。