デカルト=ニュートン主義の終焉2「時間は物理的実在ではない」

ニュートン的世界では、人間の存在とは独立に、絶対的な空間が存在し(それが宇宙)、絶対的な時間の進展とともに物体が動く。これが強固なニュートン力学を作り出し、私たちからするとごくあたりまえの常識的な世界観にまで発展した。しかし、それが相対性理論によっていとも簡単に否定されてしまった。


相対性理論では、光の速さは絶対であり、止まっている立場からみても動いている立場からみても、光の速さはいつも一定である。ニュートン的な絶対空間・絶対時間の世界ではそれはありえないのである。だから、絶対空間・絶対時間を否定せざるをえない。光の速さを絶対とすると、時間と空間が交換可能な同列のレベルの概念として語られ、時間に関しては絶対過去と絶対未来が想定されるが、それは完全に対称で、過去から未来へと時間は流れない。一方、空間は虚となり因果関係が成り立たない空間がでてくる。相対論では、時間は実在するが「時間の向きや流れはない」。


量子力学になってくると、素粒子の動きを、ニュートン的世界観で理解しようとすると、素粒子のもつエネルギーと時間がわかれば、特定の時間における素粒子の位置が確定することになるが、不確定性原理においては、時間を確定させるとエネルギーは不確定になってしまって、素粒子1個に宇宙を吹っ飛ばすようなエネルギーが存在する可能性がでてきてしまう。よって、こちらを却下して、エネルギーの量を確定させると、今度は時間が不確定になってしまって、過去・現在・未来という因果関係がなくなってしまう。よって、ミクロな世界には「時間がない」。つまり「時間は実在しない」。


ニュートン時間とベルグソン的時間があるといわれるが、ニュートン的世界が否定された以上、時間ははなはだ人間的な概念であって、人間がそういった時間概念を用いて世界を理解しようとしているにすぎない。つまり、時間は絶対的なものでも、客観的には実在するものでもないということになるのだろう。