デカルト=ニュートン主義の終焉3「時間は生命進化の結果生まれた」

相対性理論において、時間を実として、空間を虚にする理由は、時間概念は、人間が生まれつき持っている感覚であり、それを使って世界を理解するのが自然だからである。いや、実は相対論では時間も空間も実在しない。例えば、光子の立場からすると、光速に近づくほど、光子からみる空間の縮みと時間の遅れが極限に達するから、光子からみると宇宙の大きさはゼロで時間も流れなくなってしまう。光速で飛んでいる光子が別の光子をみても(止まって見えるのではなく)光速で飛んでいるように見えるわけだから、それを無限に繰り返せばあっという間というかその瞬間に宇宙の果て(があるとすると)についてしまう(だから宇宙の果て=空間の存在)を仮定すること自体がおかしい。


そもそも「なぜ、因果関係が存在するのか」「なぜ、時間は過去から未来へと流れるのか」という問いは、「なぜ、私たちには感情があるのか(嬉しかったり悲しかったりするのか)」という問いと本質的には同じである。答えは、因果関係などを含む時間概念も、喜びや悲しみといった感情も、人間が生命進化の結果として身につけたものだからである。感情や時間概念を身につけたから、自然世界にうまく適応することが可能となり、今まで生き残ってこれたというわけである。だから、時間は人間の外には存在せず、人間の中にあるわけである。


つまり、時間というのは、私たちが生まれつき持っている生物学的な知覚の特性、つまり生まれつき私たちの思考様式に組み込まれてしまっている概念なのであり。人間は、時間概念を使ってものをみたり考えたりするようにできているのである。時間概念なしに知覚したり思考したりすることが不可能であるから、時間の流れや因果関係が本当は存在しないといわれても直感的には理解できないのである。


例えば、過去は存在しないと言われても、私たちは信じることができない。過去が存在していたことは自明であると考える。それは、動物としての私たちの脳に、そのように考える思考様式が生まれつき組み込まれてしまっているから、その自明だと思える思考を排除することは不可能なのである。そして、そういった(過去の存在が自明だと考える)思考形態が、私たちが普段生活するレベルにおいては、環境適応的なのである。しかし、日常生活のレベルを超えてしまうところに同じような思考様式を用いると、それ(過去の存在)が誤りだということがわかる。例えば、人間とは独立したかたちでこの世界に過去が存在するならば、人間が誕生する以前にも過去があり、その過去をずっとをたどっていくことによって、宇宙の始まりに行き着いてしまう。ビッグバンだ。しかし、過去が存在するとすれば、ビッグバン以前という過去も存在してしまう。ビッグバンの前後で時間がぷつんと切れてしまうことは私たちの時間概念と矛盾するからだ。