時間とは一種の宗教概念

私たちにとっての時間は、一種の宗教概念である。つまり、私たちが描いている「時間が存在する」という(ある意味当たり前に思える)確信は、特定の宗教を信じている人が、その宗教の神を信じているのと本質的には変わらないということである。時間が存在するかどうかという問いは、神が存在するかどうかという問いと同様に、証明不可能だからである。あくまで、信じているとしか言いようがない。多分科学の発展のおかげで、人々が神様を信じるよりはより強く、現代人は時間の存在を信じているのだろう。


時間は、人間が物事の変化の様子を理解するためにある意味人為的に取り出した抽象概念である。この世のすべてが変化しているといっても、何か変化していないものを基準にしないと、変化さえも認識できない。そこで考えられたのが、それ自体は絶対に変化しない「時間軸」である。ニュートン的な空間軸もそうである。これ自体「すべてが変化する」の命題に矛盾しているのだが、そうしないと変化そのものを認識できないということである。変化しないものがあって、それとの対比においてはじめて変化という概念が成り立つ。物事は、それ自体まったく変化しない「時間軸」の上を、過去から未来へと動くなかで、時間とともに変化していくと「頭で」考えるのである。


このように「絶対不変」の時間軸の存在は、人間が作り出した概念にすぎないのに(要するに宗教的に信じるか信じないかの問題なのに)、それが真実(ほんとうのこと)だと仮定してしまい、それを前提に物事を考えると、たちまち論理的に行き詰ってしまうのである。


例えば、時間が絶対ならば、原理的には過去のどこまでもさかのぼれるし、未来のどこまでに前に進める。そうすると、過去をさかのぼっていくと、宇宙の始まりに行き着いてしまう。そして、宇宙の始まり以前にもさかのぼってしまう。そうすると、宇宙ができる前の「何か」が存在したり、宇宙の外側にある「何か」が存在することになり、その「何か」の起源まで考えると、論理が堂々巡りになってしまう。このように論理に破綻をきたすのであれば、絶対時間の存在を疑うのが自然である。堂々巡りになってしまうのは、前提が不適切だからである。つまり、絶対時間はないとしたほうが無難である。ちなみにアインシュタインは、相対性理論で絶対時間を否定した。


仮に宇宙の始まりを仮定するのであれば、宇宙の始まりとともに時間も生まれたとしたほうがよいかもしれない。というよりも、時間はあくまで自然現象などを理解するさいにツールとして用いる抽象概念でしかないのである。