哲学・倫理の書として読む「易経」

松枝・竹内(1996)によれば、易経周易)は、最初は運勢を判断する言葉を集めただけのものであったが、後になって言葉の注釈や周易全体を統一的に解釈するための理論が展開され、次第に哲学書としての体裁を整えるようになった。これらの注釈や易理論を編纂したものを易伝(十翼)といい、後の周易はこれら十翼を含めたものを指すようになった。十翼によって統一的な意味づけを与えられた周易は、占いの原典としての側面のほかに、哲学・倫理を説く経典としての側面をあわせ持つようになったというのである。

 

ただ、松枝・竹内は、哲学・倫理の書としての易経も、読む者の能動的な思索をまってはじめて意味を持つという。なぜなら、易経の言葉は極めて簡潔であり、しかも断片的であるため、一見しただけでは何のことかわからないからである。それに意味を付与して無限に広げていく作業は読者にゆだねられているからこそ、易経は読者の積極的参加を不可欠の要素としているというわけである。つまり、易経は神聖な経典でもなければ神秘を説く奇書でもなく、読む人ひとりひとりに自分の頭で考えることを教える書物だと松枝・竹内はいう。易経の言葉は1つのヒントであり、人はそのヒントから自由に連想を働かせて、自分の持っている問題を考えなければならないというのである。

 

易経は、世界の森羅万象は絶え間なく変化(変易)するが、そこには一定不変(不易)の法則が貫いていると説く。その法則は、陰と陽との対立・転化という平易簡明(易簡)な形式で表されると松枝・竹内は解説する。まず、易の思想の核心は、陽と陰(剛と柔、乾と坤)の対立という陰陽二元論である。あらゆる事物には必ず対になるものがあって、それと対立することによって統一した世界を作っているという。すべての変化はこの陰陽の対立から生まれるのである。そして、陰(柔・弱・低・暗・受動的・女性的なるもの)と陽(剛・強・高・明・能動的・男性的なるもの)の両者は固定的・絶対的なものではなく、常に相互に転化する、すなわち陰は陽に変じ、陽は陰に変じるという。易における変化は、この陰陽の消長交替が基本であるとする。

 

松枝・竹内によれば、陰陽の転化によって「物、極まれば必ず反す」というようにすべてが循環しながら変化を作り出しているといえるが、変化は循環だけではなく、陰陽が相互に作用することによって新しいものを生み発展させる。例えば、天はエネルギーを放出し、地はそれを受け入れて、万物が生み育てられる。つまり、陰陽は、互いに消長することによって循環し、互いに働きかけることによって新しい発展を生む。宇宙万物はこの法則のもとに不断に変化し発展するというのである。これが易経における弁証法的宇宙認識だと松枝・竹内はいう。

 

このような宇宙の変化の法則は、もちろん人間をも支配する。しかし人間は、宇宙の変化に対してただ受動的であるものではないと松枝・竹内は説く。人は宇宙の根本原理を体得することによって、天地と並ぶ地位を獲得するというように、人間がその法則をわがものにすることによって、絶えざる変化の中にあってみずからの運命を切り開いていく。また、易経で説かれる実践倫理の基本は「時中」だという。変化は時の流れとともにあるが、時々刻々の変化に対して、その本質を見極め、それに沿って行動することが「時中」なのである。それは決して時勢のままに流れることではなく、逆に、本質をつかむことによって眼前の事象に惑わされないとすることなのだという。

 

松枝・竹内の解説によれば、宇宙の循環的変化は人間社会にも当てはめられる。頂点に達したものはやがて衰える。権勢をふるうものの破滅は近い。別の言い方をすれば、支配するものは変化を欲しないわけだから、易経のように変化を基本におく思想は、常に、抑圧のもとにあってその抑圧から解放されようとする者の思想だというのである。

文献

松枝茂夫・竹内好(1996)「易経」 (中国の思想) 徳間書店