生成する流れの論理

生成とは、新たなものが生み出されていく流れである。・・・ここで重要なのは、流れが流れではない何かから構成されている、という論理を持ち込まないことである。・・・メロディーは、多数の項が連関した、分解不可能なものであってこそ、流れとして捉えられる。メロディーは、さまざまな要素が密接に結びついた連続性として、はじめて正確に記述できるのである(桧垣2002:29-31)。

生成とは何だろうか。・・・私はそれを、<かたち>なき場面に<かたち>が生じてくるような、つまり<すがた>なき世界から<すがた>が現れてくるような、力のみなぎる場面であると描きたい。・・・<かたち>を突き動かし生み出していく、しかしそれ自身は<かたち>になりえない力。現在という決定された瞬間を逃れさる、未決定的名ものである流れ。・・・生成や流れとは、見えるものであるこの世界をつくりあげる、見えないものである(桧垣 2002:37-39)。

<無限の速度での俯瞰>、それは流れを捉えるさいに、現在という定点をもちえないし、そこに依拠することもできないが、流れは分割できないために、われわれはある意味で流れすべてに一気に入り込まざるをえない、という事柄を述べようとするものである(桧垣 2002:41)。


ドゥルーズの述べる俯瞰とは、むしろ自己を根拠化する定点を設定することなしに、流れそのものに入り込むことなのである。まずは切り離されない流れにそっくり内在し、分割できない流れの潜在的な無限性(=理念性)に即応することが、生成を見るためになされるべきなのである。・・・私は動き成長する。私は無限に流れへとひらかれている。そこで私は流れに内在している。内在していることを自覚するときに、私は私をとりまくさまざまなもののあいだで、私の位置を限定し、かくして私が何であるかを知る。そのときに私とは、流れとしての世界に触れる現在=根拠のようなものではない。なぜながら、流れから切りだされる私は、流れに先立って存在しはしないからだ。そして流れに内在するというとき、その流れは、原理的に無限の広がりをもち、それゆえに未決定的なものでもあるからだ(桧垣 2002:46-47)。

コメント:トランスパーソナル心理学の視点(流れに運ばれる自分、流れと一体化する自分)と論理が似ている。