筋の良い研究と筋が悪い研究とは何が違うのか

将棋や囲碁において筋の良い手と筋の悪い手が存在するように、経営学に限らず学術研究にも、筋の良い研究と筋の悪い研究が存在するように思われる。ただし、「筋の良い研究=優れた研究」「筋の悪い研究=ダメな研究」というわけではないことに注意されたい。例えば、プロ棋士を打ち負かすようなコンピュータ将棋が、プロ棋士から見ても「筋の悪い手」を指すことがあるが、それが悪手とは限らず、実は好手とか勝因である場合があるのと同じ理屈である。この場合、コンピュータはプロ棋士が持っている美的感覚のようなものを使用せずもっぱら計算によって解を出そうとするため、プロでも気づかない、あるいはプロだからこそ気づかないような絶妙手が出てくることがあるということである。

 

では、学術研究における「筋の良い研究」と「筋の悪い研究」の違いはどこにあるのだろうか。結論的なことを先にいうと、筋の良い研究は、先行研究の蓄積とのつながりが明確であって、先行研究からの流れに自然に沿ってそれを伸ばしていこうとすることがすぐに分かる研究である。一方、筋の悪い研究とは、先行研究とのつながりが明確でない研究を指す。研究における「筋」は先行研究の筋であって、筋の良さ、悪さのポイントとなるのが「先行研究とのつながり」であるから、筋が良くても平凡である研究もあれば、筋が悪くても実は斬新で革新的な研究である可能性もある。ただし、後者の判断は難しいことが多い。

 

実は、筋が良い、筋が悪いというのは、その道のプロ・熟練者・玄人から見た美的感覚とのズレの度合いに近いものであることが重要である。筋の良し悪しは、玄人がそれを見て、直感的に感じるものだということである。例えば、プロの研究者が大学院生の論文を見て、直感的に、これは良い研究なのかダメな研究なのかを判断する際に用いる最初の「直感」「感覚」が、筋の良し悪しの判断なのである。実際、プロの研究者は、自分の専門分野の論文を膨大に読んできたという経験の蓄積がある。そもそも、プロの研究者になる条件の1つが、専門分野における先行研究に精通していることである。これが研究者の頭の中に、スキーマとして蓄積される。プロ棋士が、何千何万という対局を見てきて形成される頭の構造と同じようなものである。

 

よって、プロの研究者が研究計画や論文を見たときに、その研究内容や理論、仮説が、自分の頭の中にある膨大な先行研究のスキーマとうまくフィットするのかどうか脳内で無意識的に処理され、直感として瞬時に判断される。フィットするというのは、特定の先行研究の流れ(筋)に沿っていることが分かるということである。そうすると、美的感覚のようなものが刺激され、意識として「筋が良い」という印象が立ちのぼってくる。筋が良い研究という印象を抱けば、それは、平凡かもしれないけれども少なくとも「無難な」研究であるという認識につながる。そこからさらに、どれだけその研究が優れているのか、つまり、新たな仮説や発見によって先行研究を大きく進歩させるものなのか否かといったような判断が下される。

 

問題は筋の悪いほうの研究である。玄人の研究者から見て、「筋が悪い」と感じる研究は、先ほどの裏返しで、自分の頭に蓄積されている先行研究のスキーマとすぐにフィットしない、あるいはどうつながっているのか分からない研究である。その理由は大きく2つあると考えられる。1つ目は、研究経験の少ない大学院生や実務家が行うような学術研究において、先行研究を詳細に調べることなく、本人の実務的な問題意識や直感的なアイデアに基づいて計画、実行された研究というケースである。よって、例えばリサーチクエスチョンが、その専門分野の先行研究であまり使われないタイプのものであったり、実務的にはよく使われるが学術的に見たことがないような概念が登場したりすると玄人は戸惑うのである。

 

筋が悪い研究だという印象を与えるもう1つの理由は、その研究が非常に独創的であるがゆえに、過去に行われたことがないケースである。この場合も、当然のことながら研究者の頭の中にある先行研究のスキーマや美的感覚とフィットしないので戸惑いが生じる。ただ、それが独創的で革新的なものなのかどうかを判断するのは難しい。ノーベル賞を受賞したような研究とか、誰も解けなかった数学の問題を証明した研究など、当初は誰からも理解を得られず、優れた雑誌に論文を掲載されることすらできなかったという逸話もあるが、その話は極端な例だとしても同じような状態であろう。

 

これまで述べてきたように、筋が悪い研究だという印象が出てくる理由は、先行研究の流れ(筋)に沿っていないということが主な原因であり、そのために、まったくダメな研究なのか、類まれな優れた研究なのかの判断が難しい場合があることを述べてきた。ダメな研究というのは、筋の悪さ以外にも、研究方法論が間違っているなどたくさんの判断基準があるので、ダメであるとすぐに分かる場合も多い。そのような明確な欠陥がないけれどもダメな研究であると直感が訴える場合、その理由を説明するのが難しいことが多い。問題意識から始まって、仮説の導出について、読んでいても明確に間違っているともいえない。しかし、先行研究とのつながりが分からないので、この研究はすでにどこかでなされたものの焼きまわしにすぎないのか、それとも本当に新しく価値のあることをしているのかどうかすぐに分からない。理論や実証で使用している概念や変数が独自に設定されたり作られたりしたものであるため、先行研究で使われているものと似ているのか違うのか判断が難しいという場合もある。

 

研究の初心者としては、科学的な学術研究とは、ニュートンの「巨人の肩に乗る」という言葉が示す通り、過去の研究者が生み出してきた知識の蓄積にどう付加価値を加え、進歩させるのかが基本であるため、先行研究への貢献を意識した筋の良い研究を目ざすのが正当な姿勢であろう。研究の基本や模範に従い、守破離という言葉が示すところの「守」を志すのがよいだろう。一方、研究の玄人の場合は、守破離でいうところの離の域に達すれば、一見して筋が悪い研究に見えたとしても、その分野に強大なインパクトを与えるような研究を生み出したいという希望とか憧れを抱いている人も多いだろう。