論文のオープンアクセス化という新しいビジネスモデル

学術界では、自分が活動する研究分野のいわゆるトップジャーナルに研究成果を論文として掲載されることを最優先の目標として設定することが多い。なぜならば、トップジャーナルは、その研究分野において最も高水準な論文を、厳しい審査を通して選びすぐったうえで掲載するからである。だからトップジャーナルに掲載されれば、その論文は多くの人に読まれ、引用される。つまり学術の発展に大きく貢献する。一方、現在は、アカデミックジャーナルに大きな変革の波が押し寄せており、その波の1つが、論文のオープンアクセス化であり、それを取り入れたオープンアクセスジャーナルや、従来型の雑誌購入とオープンアクセスを組み合わせたハイブリッドジャーナルが主流となりつつある。つまり、オープンアクセスオプションのない、純粋に雑誌購入でしか論文を読めないようなジャーナルはもはや皆無であり、世界は論文のオープンアクセス化と、オープンアクセスジャーナルに軸足が移りつつあるのである。

 

しかしこれは時代の流れを見れば当然ともいえる動きである。というのも、いわゆる紙媒体のアカデミックジャーナルは、音楽でいえば、かつてのレコードやCDといった媒体に相当する。つまり、論文という形で完成した研究成果を世の中に発信していくためには、ジャーナルという紙媒体に掲載してもらって、大学の図書館などがそれを購入して初めて多くの人に読んでもらうことが可能になったわけである。それが現在、多くの人がレコードやCDを通してでなく、ネットを通してダイレクトに楽曲を購入したりするのと同様に、論文も、他の論文と一色単になったジャーナルを購入することによってではなく、ネットを通して単独で購入されることが可能になっているのである。音楽などのコンテンツ産業と学術との違いは、コンテンツ産業があくまで作者がそれを販売することで利益を得ることを目的としているのに対し、学術は、研究者が「公共財」としての自分の知的生産物(学術論文)を広く行き渡わせることによってその研究成果を普及させることを目的としているところである。

 

では、学術論文というコンテンツの流通と、それに伴うお金の流れという視点から、オープンアクセス化の進展によって学術ジャーナルのビジネスモデルがどのように変化しているのかを見てみよう。まず、前提として押さえておくべきことは、学術論文は「公共財」であるといことである。研究成果は人類の発展に寄与するための公共財であるから、現実的には読者は研究者に限られているとしても、理念的には誰もが無料で閲覧できなければならない。しかし、世界中で誰もが閲覧できるようにするには、誰かが費用を負担しなければならない。伝統的な学術雑誌のビジネスモデルでは、論文の校正、組版、印刷、製本といった紙媒体としてのジャーナルの生産と、図書館などへの運搬に費用がかかる。前者の作業は出版社がその役割を担うが、その出版社に費用を払う必要がある。その費用は主に研究を担う大学や大学の図書館が負担していたのである。

 

つまり、伝統的な学術論文の流通にともなうビジネスモデルは、研究機関としての大学が、国家からの補助金や自らの財源を用いて公共財としての学術論文をひろく世の中に送り出すための資金を提供する役割を担っていたのである。要するに、国家や大学が、図書館などを通して雑誌を購入することで費用を負担していたわけである。このビジネスモデルは安定して持続していたが、インターネットの発達を伴ったデジタル社会の到来とともに大きな変化を余儀なくされることになった。論文が、ジャーナルという紙媒体のみならず、インターネットを通してアクセス(ダウンロード)できる電子ジャーナルの刊行が可能になったことで、音楽業界など他のコンテンツ産業と同じ動きが起こった。その幕開けが、論文単独の販売とサブスクリプション型のモデルの登場である。

 

論文の単独販売は分かりやすいが、サブスクリプションとは、雑誌の出版社が自分の発行している電子ジャーナル単体もしくは電子ジャーナルのコレクションを定額で販売し、購入した者はコレクションに含まれているジャーナルの論文は閲覧し放題となる仕組みである。ただ、紙媒体も健在ではあるので、紙媒体と電子ジャーナルの組み合わせたサブスクリプションも多い。ただし、論文の単独販売であろうとサブスクリプションであろうと、主な購入者は、これまで同様、大学や大学の図書館がメインである。先述のとおり、国家や大学が、図書館などを通して電子ジャーナルや紙媒体のジャーナルを購入することで費用を負担するという構図は変わらないわけである。論文の単独購入も、研究者が研究経費で購入することが多いから、これも結局は研究費を支給している国家や大学が間接的に料金を支払っているのと等しい。

 

そしてついに、ビジネスモデルを根幹から変革してしまうほどの影響力をもったオープンアクセス化が登場する。これは、世界中の誰もが無料で論文にアクセスし、閲覧したりダウンロードしたりできる仕組みで、これこそ、本来の公共財としての論文のあるべき姿といえる。そして、このオープンアクセスを可能にするためのお金の流れは、伝統的なモデルとはかなり違うのである。それはどういうことかというと、伝統的には、論文を読む側が料金を支払うという仕組みであったのに対し、オープンアクセスの場合は、論文を掲載してもらう著者の側がお金を払うという仕組みなのである。

 

伝統的な学術論文のビジネスモデルでは、研究を実践し、論文を作成し、投稿して掲載してもらう著者は基本的に費用を負担しない。その代わり、大学の図書館などが費用を負担する。一方、オープンアクセスのビジネスモデルでは、論文を作成し、投稿して掲載してもらう著者は基本的に費用を負担する。その代わり、大学の図書館などは費用を負担しない。負担する側、しない側が入れ替わっていることがわかるだろう。オープンアクセスジャーナルや、ハイブリッドジャーナルにおいてオープンアクセスオプションで論文を掲載してもらう著者は、国家や大学から研究費を得て、その研究費からオープンアクセスにかかる費用を支払う。あるいは、国家や大学が、直接、自分たちがカバーする研究者たちの論文について出版社に一括したオープンアクセス料金を払うことで、その国や大学に属する著者が費用を負担しなくてもよいように取り図る。

 

確かに、国家や大学が、間接的にオープンアクセス化の費用を負担しているということを考えれば、デジタル化とオープンアクセス化が普及しつつある現在でも、負担する母体はあまり変わっていないといえる。つまり、依然として国家や大学が資金提供者となって公共財としての論文の流通を支えている。では、何が違うのか。それは、かつては、ジャーナルそのものが大切であったのに対して、これからは、単独の論文そのものが大切であるという点である。例えば、紙媒体中心の時代においては、読まれるべき論文は、ほとんどの大学や図書館が購入しているトップジャーナルに掲載されることによって、そしてそのトップジャーナルの購入にお金を使うことによって、もっとも多くの人に読まれることになっていた。これからは、読まれるべき論文に対して直接お金を払うことでオープンアクセス化をすれば、多くの人に読まれることになるのである。トップジャーナルは、論文を束ねる媒体としての役割は終え、読まれるべきであるというシグナルの提供が主な役割となりつつある。

 

繰り返すが、研究成果やそれを形にした学術論文は「公共財」であるから、公共財を普及させるための資金提供者は、民間ではなく国家や大学といった公共機関が中心となることは当然である。しかし、国家や大学が、従来のように図書館などジャーナルを購入する側に資金提供するのではなく、優れた研究を行い、多くの人に読まれ、引用され、学術に貢献することを可能にする論文の生産者すなわち研究者により多くの研究費を提供し、そのような読まれるべき論文を作成する研究者がその研究費で自身の論文をオープンアクセス化する。あるいは、そのような研究者が集まった大学に国家や寄付者がより多くの資金を提供し、当該大学が、所属する優れた研究者が生み出す論文をオープンアクセス化するための資金を提供する。現在、こういったかたちで学術論文のビジネスモデルが変化しているのである。