「論理とは流れ」であり「流れとは論理」である

加藤(2013)は、数学と音楽は似ているという話から入り、その理由として、数学では「論理」が決まって「流れ」を構成し、それは音楽的な「流れ」とよく似たものであるといい、その後、「論理とは流れ」であり「流れとは論理」であるという説を展開している。つまり、論理と流れは同一のものだというのである。やや詳しく説明しよう。加藤は、「流れ」を「<始まり>と<中間>と<終わり>を持った1つのユニット(フレーズ、物語)である」とする。始まり、中間、終わりという3つの過程を通して1つの(一貫した)内容もしくは印象を表現するものだという。さらに、流れは重なりあうだけでなく、1つ1つの流れが、必ず多くの小さな流れのユニットから構成されているという「自己相似的な入れ子構造」があるという。「流れ」は1つのフレーズであり、1つのストロークであり、1つのストーリーであるが、それは1つだけで存在するのではなく、局所性と大域性の両面を宿しながら豊かな自己相似的構造を孕みつつ存在しているというのである。


そして論理の過程にも必ず<始まり>と<中間>と<終わり>(仮定、推論、結論)がある、すなわち論理は常に「流れ」を伴って現れると加藤は指摘する。そして、実際の論理・推論過程は、P⇒Qのような最小単位が幾重にも入れ子になり重なりあってできているという。これは、構造という点からすれば、音楽における楽曲と同じなのだというのである。音楽と同じということは、ただ単調なのではなく、起承転結のように、前のフレーズを受けて発展させるといった論理構造が流れを生んでいたりするのである。ここまでで「論理とは流れである」という説明になるのだが、「流れは論理である」というのはどういうことか。これに関して加藤は、いかなる流れにおいてもその<始まり>と<終わり>を繋ぐ<中間>に、何らかの意味で論理的な推論過程が存在していると説明する。これを数式や言葉で表現したのが数学であり、音の連なりや重なりによって体現したものが音楽であるというわけである。流れに一見不自然な飛躍や大胆なギャップがあったとしても、そこに非常に広範囲な意味での論理性(あるいは人間性)を認める限り、流れは論理なのであると加藤は主張するのである。しかし、論理的な流れにおいて、しばしば何らかの意外性や大胆な場面転換があったとしても、論理的にはそれほど大きな距離感はなく、全体が1つのストーリーとして首尾一貫していることが重要なのだという。論理=流れは思いのほか深い内容を孕んでおり、音楽と似ている数学という学問は人間的な魅力と柔軟性に満ち溢れているという。


次に加藤は、数学における<正しさ>に目を向ける。数学は厳密な学問であると思われており、厳密さの根拠に厳格な論理性がある。同時に、数学は長い歴史を持つ成熟した学問であり、人間的で柔軟性に富んでいる。つまり、数学は厳格でもあり柔軟でもあるのだが、この一見して二律背反的な諸側面の狭間に数学における<正しさ>が漂っているというのである。加藤によれば、<正しさ>の認識における3要素は、「基盤」(共通の世界に住み、共通の言語を話すという前提)、「流れ」(修辞的論証・対話や、計算・計算手順などの論理過程)、「決済」(議論の落としどころ、往々にして直観的)である。そして、この認識段階にも「流れ」のときと同様な大小様々な入れ子構造があると加藤はいう。小さな決済が次の段階の基盤を整え、流れを生成し、また大きな決済をもたらすというように。小さな3要素の生成過程が、高次の基盤世界と流れを構築し、さらに高いレベルの<正しさ>を決済するように。