「論理的」「理論的」に説明するとはどういうことか

学問、とりわけ学術論文においては、その内容を「論理的」あるいは「理論的」に説明することは必須である。では、論理的、理論的であるとはどういうことだろうか。出口(2013)は、大森(1981)を参照しながらそのことを説明している。


大森によれば、「論理的である」「論理的に正しい」とは、5つの語が使われる規則の正しい組み合わせにほかならないという。5つの語とは、「・・・でない(否定詞)」「・・・かまたは(撰言詞)」「・・・でありまた(連言詞)」「・・・はみんな(総括)」「何々は・・・である(である)」を指す。つまり「論理的な正しさ」は、「5つの言葉の使い方の規則」にしたがってさえいれば、無条件に成立するということなのである。


ここでとりわけ大事なのは、大森や出口が示唆するように、「論理的に正しいかどうか」の判断には、事実についての情報がまったく関与しないということである。つまり、論理が普遍性を持っている理由は、「それが事実に関する情報を全く持っていないから」である。六法全書を例にとれば、法律には規則が書いてあるだけで、誰がいつ、どこで、いくら盗んだといったような事実は一切書かれていないのと同じである。だから法律には普遍性がある。事実的な情報がゼロということは、事実がどうであろうと、世界がどう動こうが正しい。これこそ論理が持つ「普遍性」なのである。


このことから、「理論的に説明する」とはどういうことかについて、実に大胆な真実が分かってくる。大森が指摘するその真実とは、理論的な説明とは「すでに理論として言ったことを繰り返して言うにすぎない」ということである。もう少し正確にいえば、「理論的に説明する」とは「ある理論からその何かを論理的に引き出す」ということである。論理が事実とは関係がない以上、理論に対して新たな情報は何も加わらない。だから「繰り返して言っている」にすぎないこといなるのである。


つまり「理論的に正しい説明」というのは「その理論を繰り返して言い直した」ということになる。「互いに引っ張り合う物体はみんな近づく」という「万有引力の法則」を理論として言うならば、それはすでに「枝から離れたリンゴは落ちる」ということをすでに言ってしまっている。


このことから、すぐれた理論とは何かについてのヒントも得られる。それは「みんな」という一般性で見てとることである。逆に言えば、理論を作るということは、個々の具体的な現象に共通する性質を見つけ出し、それを一般化して普遍的な法則にするということである。それができるということが「天才の眼」なのだと大森はいうのである。「みんな・・・である」という理論さえあれば、その特殊ケースは、なんの新たな情報や事実を加えることなく、理論から導くことができる。なぜなら、それは範囲が狭まっただけで本質的には「同じことを繰り返し言っているにすぎない」からである。