「説明」と「解釈・理解」はどう違うか

保城(2005)は、「説明(explanation)」とはいったいなにかという問いを発し、説明という概念は3つの意味で使用されていると主張する。1つ目は「因果関係の解明」という意味であり、多くの実証主義者の間では主流となっている見方である。説明される現象(被説明項: explanandum)について、説明項(explanans)である事実や一般的法則を用いて「なぜ・・・なのか」の疑問に対する解答を導き出すことが、科学的説明の目的だという。つまり、原因と結果を論理的に結び付けるということである。2つ目は「理論を統合する」という意味であり、例えば自然科学で、ケプラーの惑星運動の法則やガリレオの落体の法則を、ひとつのニュートン力学でまとめることによって説明するようなものである。しかし、保城は、この意味での説明は中範囲理論の構築を目指す社会科学にはそぐわないとする。3つ目の意味は「記述としての説明」であり、ある状態や性質を記述・描写するという意味である。


実証主義者で主流となっている「因果説」に反対する立場のひとつに、社会構成主義があると保城は説く。社会構成主義では、あらゆる表現の形式は、人間によって形成された共同体の関係から意味を与えられると考える。原因と結果も社会的に構成されたものであり、私たちが何かを理解するためにつくられた枠組みに過ぎないという見方もあると保城は指摘する。よって、社会構成主義では、社会における規範やアイデアが「構成されるのを明らかにすること」や「物語ること」も説明だと考える。よって、主たる問いは「なぜ」ではなく、「どのように可能になるのか(how possible?)」や「何であるか(what?)」であるという。ただし、これらは説明というよりは、「構成的な分析(constitutive analysis)」や「構成的記述(constitutive description)」だとする見方もある。


また、ギアーツなどに代表される「解釈・理解」のアプローチもある。彼らにとっての研究目的は、因果関係を明らかにすることではなく、特定の文化を「解釈」することにある。例えば、特定の文脈におけるある行為(例、片目をつむる)という行為に何らかの意味を求める、すなわち解釈する。このアプローチは、ウェーバーの「理解」という概念および「理解社会学」に起源をもつと保城はいう。また、ポスト実証主義者の一部は、外側からの「説明」と、内側からの「理解」を区別するとも保城はいう。国家の行動の研究を例として用いるならば、外側からの説明は自然科学から導入されたものであり、国家の行動の原因をなんらかの法則性を駆使して明らかにすることが目的となる。一方、内側からの理解は、政治的リーダーが何を信じ、どのような望みをもっているかを捉えることによって、彼らのとった行動の意味を探ることを目的とする。よって、同じ現象に対して異なった解釈が受け入れられる。


これらの「解釈学」もしくは「理解説」の前提にあるのは、社会的な世界を分析するには因果だけでなく、解釈・理解も同等に重要なのだという視点である。ただし、これらの「解釈学」には、特有の方法論や首尾一貫性があるわけではなく、ある現象を「説明」するにはあまりにも弱いという批判があるという。保城もまた、「理解説」は「説明概念」としてはふさわしくないと考える。人間や社会の行動を解釈・理解することは、それ自体が目的となるものではなく、その行動をとるに至った原因を明らかにすること、すなわち因果関係メカニズムを明らかにするための手段のひとつだと考えるべきだからだという。因果説と理解説は異なる説明概念なのではなく、人間社会における行動について、なぜという問いに答えるためには、しばしば解釈・理解することが要求されるということなのだというわけである。解釈・理解を因果関係解明の一手段とするという考えは、ウェーバー自身が最終的に到達した考えであり、彼は社会学を「社会的行為を、解明しつつ理解し、そうすることにいより、当の行為の経過を因果的に説明するひとつの科学」と定式化したのだと保城は説明する。


なお、保城は、歴史から理論を構築するためには、説明概念のうち「因果説」と「記述説」の統合が必要だと主張する。両者を同時に満足させつつ、補完的に使用するわけである。新事実を記述するとともに、その事実に関する因果関係を解明することである。例えば、ある分析事例に関する新しい事実を、先行する研究群とは異なったかたちで明らかにし、当該事例がなぜ起こったのかという因果関係を解明することである。ある結果に対して、先行研究とは異なる新しい事実を、その結果を引き起こした原因として明らかにするという研究はその1つである。ただし、ある社会現象の要因は単一ではなく、複数の諸要因が重なり合って初めて現れることがほとんどであるから、発見された新しい原因が、従来の説を部分的に修正するのか、あるいは完全に覆すものなのかを検討することが必要である。結果に対して、通説とは異なる新しい事実を提示することによって、当該事実が起こった原因をも新たに明らかにするという研究も、困難であるが可能であると保城はいう。