流体モデルの自然観

老子は、究極のものははっきりとはとらえられないと言い、「道(タオ)」という名前も仮につけたものにすぎない。しいて言えば、それは万物を生み出す母のようなはたらきをするものであり、至るところに流れ動いてやむないものである。その「みえないもの」のはたらきが、常に流れ動いて万物に生命を与えている、という。中国人はやがて、この流れ動くみえないはたらきを「気」と読んだ。氣(気)の古いかたちはまさに流れ動くものを象徴している。形ある万物はそのはたらきによって生まれ、生かされているから、「みえないもの(道)」は人間にとってまったく知りえないというわけではない。山川、動物、植物、器具など、形と実体をそなえた「みえるもの」の世界すべては、みえない道のはたらきの「容器」である。よって、「みえる身体」の基礎に「みえない身体」「流れる身体」のシステムを考える人体の考え方は、このような哲学的宇宙観と人間観から生まれたものなのである。人体は、「道」のはたらきが宿る容器である(湯浅 1991)。