自然に注目し無為を主張する老荘思想

叢ら(2013)は、中国の春秋・戦国時代という弱肉強食の世で智慧が何よりも求められた時代にあって、政治や法律、兵法などの競争の思想とは相反して、自然に注目し、無為を主張する思想として道家思想が生まれたと解説する。


道家思想の根幹をなす概念は文字通り「道」であり、韓非子も「道とは万物の依拠する法則であり、万里の従う準則である」と説明しているという。老子自身は「混沌とした物が天地に先立って生じ、音もせず、形もなく、独立してかわらず、循環してやまず、天地の本源となりうるものである・・・」と語っているという。「道」とは天地万物を無の状態から生み出し、それらをつかさどる自然の法則であることから、天地万物の根源を神にではなく、自然に求めるのが、道家思想の原点だという。


道家の書物が書かれた時点では科学技術が発達していなかったにも関わらず、「無」と宇宙誕生に関する道家の見解は現代科学の結論と合致しており、道家思想において自然の法則は普遍的な原理としてあらゆる事物の解明に応用されているという。


道家思想は、生と死についても、どちらも自然のなりゆきであるとする。叢らは、「すでに生まれたからには、自然のなりゆきに任せ、したいことを存分にして、死を待つのだ。死期が近づいてきたら、自然のなりゆきに任せ、死へ向かって、行きつくところまで行くのだ。すべてを自然のなりゆきに任せれば、遅いか早いかの違いを気にすることはないではないか」という楊子(楊朱)の言葉を紹介している。


荘子も「死生は天命である。自然の法則にしたがって夜と昼が常にくりかえすのと同じものである。人間の力では変えられないものがあるのが、自然界本来の姿である」と言い、「大自然はわれわれに身体をさずけ、働かせるために生を与え、楽にさせるために老いをもたらし、休息させるために死をもたらす。だから、生を肯定するならば、死をも肯定することになる」と言う。道家は人を自然と同一視し、生死を昼夜の繰り返し、または春夏秋冬の移り変わりと同じような自然の変化として解釈する。したがって、生を喜ぶことも、死を嫌がることもなく、すべてを自然のなすがままにゆだねることができるのだと叢らは解説する。


また、人類は長い年月にわたって緊張を解消し心身を弛緩状態に戻すためのリラクゼーションの方法を模索してきたが、そのもとをたずねれれば、道家思想による「純粋な精神状態」にたどりつくと叢らは言う。純粋な精神状態とは、安危も利害もまったく意識せず、自然のなりゆきに身を任せる弛緩状態、つまり、自然な状態である。弛緩状態にあれば、緊張が生じず、身体が構えず、抵抗による不自然な摩擦や衝撃が起こらないため、外物によって傷つけられにくいと解説する。