誰かが作った流れの中で生きる

菅原(2003)によると、多くの日本人が「他人の作ってきた流れの中で生きることの限界」にいる。例えば、終身雇用を前提とする大企業で、支配するトップのつくった流れに乗るかぎり、それが自分のやりたい仕事とは違っていても、自分の生活や地位を守ってもらうことができた。しかし同時に、誰かに作られた流れの中で生きるということは「ねばならない」という義務感を生じ、選択の余地がなくなってしまう。子供達は好きでなくても勉強をし、よい大学に入り、よい会社に入れば、学校や先生が作る流れに乗っていることであり、そのかぎりにおいて自分は守られ、社会的には成功していると見なされる。一方、そういった流れに乗らずに自分の力で進路を切り開いていくことは、よっぽどの実力者でないとできないという風潮があった。他人のつくった流れの中で生きることによって守られるためには、ねばならないことを我慢していかねばならなかった。


しかし、現代はそういった「流れ」が見えなくなってきた。そして、自分の生活は自分で守らねばならない自己責任の社会にもなってきた。よって、流れのなかで「ねばならない」と自分を駆り立ててきた時代から、「やりたい」という意志をもとに行動していくことが求められる時代になってきた。その結果、「自分探し」が流行し、「やりたいこと探し難民」も増えてきた。これまでは「大きな流れの中で生きてきた」ため、流れの中で目立たぬよううまくやっていくことはできたが、自分でやりたいことを見つけ、自分で流れを作り出すことにはなれていない。われわれが身を任せることのできる大きな流れが見えなくなってきた以上、一人一人が、流れの中で漂ったり、流されたりすることなく、自分自身の「やりたい」小船を浮かべ、協力しあいながら生きていくことが求められているのであろう。