気のコスモロジー

伝統的に気という言葉によって指し示されているのは、この自然世界の森羅万象、私たちの身体を包んでいるさまざまな事象すべてのことである。変化流動し続ける自然世界の全体を、東アジアの人々は「1つの気」という言葉で呼んだのだ。
石田(2004:x)

「自然」という言葉に・・・「自ずから然る」・・・自然は人がコントロールすべきものではなく、その流れに「人が従って動くべき何か」である。「無為」(行為しない)という言葉は、そうした「人の行動のありかた」を指し示している。自然の内部で、おのれ自らも自然である人が、行為するに際しての格律は「自然の流れに従う」ということである。にもかかわらず・・・「自然の流れに逆らう」方向に向かいがちだ。やがては自滅につながっていくであろうそうした行為を「為さず」(無為)、「自然の流れに従って行動する」(無為の行為)という意味を、「無為」というひとつの言葉は指し示している。
石田(2004:345)

自然世界の変化流動そのものを、身体によって感受され=分かられるが、「語りえない」。言葉によって語りうるのは、この自然世界のほんの少しだけだ。さまざまな物や象を現わしているいる変化流動そのものを、そもそも私たちは言語化できない。


身体の知によって「分かられたこと」でも、同一性を帯びていないことは言語表象に置き換えることができない。同一性を帯びているのは変化と流動のプロセスに現われる位相的類似性だけなので、変化流動そのものは「語りえぬこと」になる。
石田(2004:334-335)

解釈の試み

「AはBに変化した」というが、どうしてAからBを、1つのモノもしくはコトの連続した流れであると断定することができるのだろうか。AがBになった時点で、Aは消滅し、異なるBになったということなのだから、AがBになったという連続性を支持する証拠は何もない。Aがいつの間にかどこかに消滅してしまい、どこからか全く新しいBが姿を現したのかもしれないからだ。別の言い方をすれば、「AがBに変化し、同時にCが出現した」という状況では、それが本当かは確かめることができず、もしかしたら「AがCに変化し、同時にBが出現した」のかもしれない。そうなのにも関わらず、なぜ「AはBに変化した」と自信を持って言うことができるのだろうか。それは、「AがB」に変化したといっておきながら、AとBは同じであるという確信を持っているからである。そうならば、AはBに変化していないことになる。このように「AがBに変化した」という表現は、AもBも同一であるという大前提があってこそ言えることなのである。だから、変化したと言っておきながら、変化していないと影で言っているのである。つまり、変化しないもの(ここでいうとA=Bであるなにものか、あるいはAとBの両方に含まれる本質)のみが言語で表現できるのであって、本当に変化してしまうものは、身体感覚では追いかけることができても、言語では追いかけることができないのである。つまり言語で表現できないのである。しかし、自然というものの本質は、変化し流動するものであるから、言語で表現できない変化も当然あるのである。ここで、自然といっているが、言語をつかって「自然」と表現した時点で、本当はそうではないのにもかかわらず、自然は動かぬ何ものかであるという前提を置いてしまっているのである。実は、変化流動そのものが自然なのである。自然そのものは、身体では感じることができるが、言語ではうまく表現できないのである。