認知言語学で理解する「流れ」の概念

「流れる」を使った言葉にはいろいろあるが、その中に「川が流れる」「桃が流れる」がある。一見すると、自然な表現であるが、冷静に考えてみると不思議な言葉でもある。西村・野矢(2013)によれば、これは認知言語学で扱うメニトニー「隣接の関係に基づく比喩」の1つである。メニトニーの特徴は、通常その言葉で支持される対象そのものではなく、それと近接の関係にある対象を指すことだと西村・野矢はいう。「赤ずきん」(赤い頭巾をかぶった女の子)といったような名詞のメニトニーもあれば、「歯がしみる」(何かが歯にしみて痛い)のような動詞のメニトニーもある。このような認知言語学的視点から「流れ」という言葉を分析するとどうなるだろうか。


西村・野矢の説明では、「川が流れる」については、文字通り、「川」が「流れている」わけではなく、川の「水」が流れているといえる。「桃が流れている」というのも、もともとは「水」が流れているのであって、桃はそれに運ばれているような状態である。ここでは「流れている」が、液体のスムーズな動きにのっかって固体が移動するという意味になっていると西村・野矢は指摘する。このような用法は、日本語にはあるが、英語にはない。そもそも、「流れる」の主語は、ほんらいは水や空気、煙などの「流体」である。


ラネカーによれば、メニトニーの基礎には、言語に特化されない人間の一般的な認知能力があり、それを「参照点能力」という。そして、メニトニーは参照点能力の現れだという。また、西村・野矢は、参照点能力とは別の認知能力として「百科事典的な知識」にアクセスする能力も、メニトニーに関連すると論じる。例えば、「トイレを流す」という表現を考える場合、まず、プロトタイプ的なトイレの理解があり、トイレは用を足したら水を流す、というフレームが呼び起こされる。これは、トイレに関する「百科事典的知識」のまとまりである「フレーム」にアクセスしてそれを呼び起こす能力と関連している。そして、「水を流す」ではなく、あえて「トイレを流す」というのは、そのフレームの中のトイレの状態に関心があり、そこに焦点をあてた表現であると解釈することができるという。