経営学の国際化が困難な理由

経営学や社会科学一般の国際化が困難な理由として、1つ目としては、そもそも、自然現象と異なり、社会現象というのは、言語が介在することで成立するものであるから、そこで使用される言語に代替が効かないとする視点がある。


社会科学分野の国際化が困難な理由
http://d.hatena.ne.jp/tomsekiguchi/20140515/1400171940


もう1つの理由は、世界観の言語論的転回に関連するものである。言語論的転回の前は、言語というのは、世界を写し取るための道具として考えられていた。学問の国際化を考える際、この視点から考えられることが多い。言語が存在する以前に、客観的な実在としての世界が存在し、それを写し取った現象や概念について研究し、その成果を蓄積していくものとしてもっとも発達しているのが自然科学である。このような立場に立てば、世界を記述するのにもっともブレがなく、万国共通で正確だと考えられている「言語」もしくは「記号」が数式である。よって、数式を用いることが多い学問ほど、国際化しやすい。


経営学でも、現象を、変数間の関係であるととらえ、その関係を数量的に把握していくような研究であれば、言語の壁が薄くなる。変数は、自然科学と同様、言語より先に客観的に実在するものとして捉えられる。例えば、企業行動や人間行動という「行動」を、度合いもしくは量を伴う変数として理解し、それを測定することによって把握するようにする。こうなってくると、重要なのは、論理とか統計の問題となり、自然科学のアプローチに近づいていく。このような論点は、社会科学の国際化が困難な1つ目の理由とも関連している。


一方、言語論的転回では、言語が(客観的に実在する)世界を写し取るのではなく、言語が、世界という実在を作っていると考える。世界は言語より先に存在しているのではなく、言語が織りなされた結果として世界が存在する。例えば、経営学において、経営戦略について理解するために研究するとしよう。しかし、経営戦略という現象自体が「戦略」という言葉が経営学で使われるようになったからこそ「実在」するようになったわけで、「戦略」という言葉を経営現象の理解に利用する以前では、経営戦略は実在しなかったのだと考えられる。もっといえば、新しい言葉が「発明」され、それが普及すると、今度は、現実の人々や企業がその言葉に影響を受け、行動自体やその結果としての現象も変わってしまう。


このように考えると、経営学では、測定可能だと思われる変数や概念があらかじめ存在すると仮定するのではなく、経営現象の注意深い観察を通じて新たなコンセプトを打ち立てていくような活動も、言語論的転回という視点からは立派な学問的探求であり、経営現象という世界を理解すると同時に、経営現象という世界を構築する試みでもあるのである。言葉によって、うまく現象の一側面を「切り取る」という試みもあるし、それによって、新しい経営現象を「生み出す」という試みもある。これを、日本語で行う場合と、語彙も文法も違う外国語で行う場合とでは、当然の事ながら、結果として立ち現れてくる世界そのものが変わってしまう。


日本語で経営学を研究する場合、経営現象を切り取る(表現する)際に、日本語ならではの絶妙な切り取り方があるはずだし、それによって、日本語ならではの概念(コンセプト)が生まれてくることもあるだろう。そのようにして経営現象の世界を作りだし、理解することができたとしても、これを容易に外国語には変換できないのである。それはすでに日本語によって作り出されたユニークな世界なのであり、外国語によって作り出そうとする世界とは本質的に異なっているとも解釈できるのである。経営学とは関係ないが、例えば、日本語ではたくさんある魚の種類が、特定の外国語ではあまりないとすれば、魚にまつわるさまざまな語彙を駆使して記述されたリッチな世界は、その外国語では表現不能となってしまう。よって、そのようなリッチな世界を理解する試みは、その外国語を使うとまったく意味の無いものになりかねない。


日本の経営学でも実務的かつ学問的によく注目される「経営理念の浸透」を例に考えてみよう。経営理念の浸透は、とくに日本企業の実務でも重要視されているし、それゆえ学術的に研究する意味も大きい。しかし「経営理念」という「実体」が、主語(主体)として組織内に「浸透」していくという認識は、日本語ならではの発想で、完璧に同じ認識、完璧に同じ世界を、英語と共有できない。英語の場合は、Sharing core valuesというような表現が用いられ、人々が、同じ価値観をシェアするというかたちで理解される。粗く考えれば同じようなことなのかもしれないが、深く、リッチに考えようとすると微妙に異なってくる。英語でいうところのValue(価値)は、一人歩きして組織内に浸透していくようなものではない。もっといえば、英語でいう組織(organization)というのは、人の集まりとか仕事の集まりであって、何かが浸透するような実態ではない。


別の題材として、仕事をしていくうえで「段取り力」が大切であることは日本人ならば多くの人が認めることである。日本語の世界では、段取り力というのがあり、それが、仕事ができる人間として大事な能力であるという現実がある。しかし、段取り力は便利な日本語だが、適当は英訳語がない。段取りは、arrangementというように表現可能だが、そのように表現したとたんに、何か大事なものが抜け落ちてしまって、あまり洞察が得られない感じがする。


日本の人事の世界では、以前、「コンピテンシー」「コンピタンシー」という言葉がアメリカあたりから「輸入」され、大流行したこともあった。素人的に見れば、それは「能力」と何が違うのか、という素朴な疑問が出てくるのだが、「能力」と表現すると捉えきれない何かが「コンピタンシー」という言葉に含まれているからこそ、そのような「英語」で表現された言葉、コンセプトを意図的に使っていたのであろう。つまり、英語の世界で作られた「コンピタンシー」という概念は、容易に日本語の「能力」と共有できないのである。


このように、言語によって、語彙やニュアンスが異なっている中で、言語が異なれば、同じ世界を構築することも、同じ世界を共有することもできない。そんな中で、英語が世界共通言語なのだから、英語を用いて経営学を実践し、国際化を図るべきだというのは少々乱暴な議論ということになるのである。