世界を理解する試み(西洋と東洋)

世界を理解しようとする試みを、便宜的に東洋アプローチと西洋アプローチとに2分するかたちで論じてみたい。


東洋思想に代表されるように、東洋における世界を理解する試みは、生成発展しつづける自然を、「あるがまま」、まるごと理解しようとする試みであると解釈できる。そこでは、自然の生成発展を支配する法則性を見出すが、当然のことながら人間もその自然の一部であり、自然とともにうつろう「あるがまま」の人間を基本とする。このような東洋的な自然理解の背後にあるのは、人々の「自然と共存しよう」という姿勢である。自然を、生成発展する変化の学として法則的に理解する東洋思想は、自然との共存を念頭においた、暦やしきたり、風習、儀礼などに影響を与えることになる。東洋思想における世界を理解しようとする試み、すなわち自然理解は、人々による本質的な理解を象徴(シンボル)をうまく論理的に用いることによって表現しようとしているもので、自然・世界の本質を突くものであると思われるが、うえに述べた特徴がゆえに、それを、主体としての人間が客体としての世界を操るために用いることを困難にする。つまり、主客分離を前提とした学ではないので、「操る−操られる」といった関係が自然理解の学の中に内包されていないと考えられる。人間が世界を操る効率を高めることを「実用的」「実践的」「役に立つ」というならば、東洋思想はあてはまらないかもしれない。言い換えれば、人間が操作するための世界理解ををめざす知識体系を構築し発展させる試みを科学とするならば、東洋思想は科学的ではない。


一方、近代科学の発展に代表される西洋の世界を理解する試みは、自然を機械もしくはシステムになぞらえて、それを理解するために部分部分に分解していく考え方である(還元主義、分析思考)。部分部分に分解したうえで、その部分部分の関係を吟味する。つまり、世界をいったんパーツに分解し、パーツ同士のつながり(因果関係や相関関係など)を理論化することによって、再び世界を全体として理解しようとする思考である。この考え方の背後にあるのは、自然の理解を、人間がよりよい生活ができるように利用しようとする試みである。世界をパーツに分解し、そのパーツをいじったら、そのパーツに関連づけられている別のパーツがどうなるか、そしてそれらを含む因果関係の連鎖が、システム全体にどう影響を及ぼすかなどを明確にすることは、人々が自然を対象として操作するのに適した考え方であると思われる。もともと自然が人類に対して厳しいが、それを克服することも可能であったヨーロッパ(西洋)から発展したことを特徴付ける思考である。したがって、西洋近代科学の発展は、科学技術の発展と実用化というかたちで実際に人々が自然を操作し、暮らしを改善するのに貢献したのだと考える。そのため、西洋的アプローチに基づいた世界を理解するこころみ、とりわけ科学的であると解釈される枠組みは、多くの人々から信頼と支持を得られる思考・分析体系であると理解される。