社会科学分野の国際化が困難な理由

物理学や化学、医学などの自然科学系の分野に比べて、経営学などの社会科学系の分野では、国際化が遅れているといわざるを得ない。つまり、グローバルな共通の土俵でみた場合、自然科学における日本のプレゼンスは世界的に見ても高いと思われるが、社会科学の場合は、自然科学ほどではない。それは何故か。


まず、自然科学系のように、数学的な学問であればあるほど、日本の競争力は高い。社会科学系であっても、経済学のように数理的な部分の多い分野は、経営学のように数学的要素が少ない分野よりも国際化が進んでいる。それは、数学が世界共通言語であるために、数学に秀でていれば、日本人であっても研究の遂行や論文の作成において言語障壁がないに等しいからである。一方、数学的要素の少ない分野になってくると、グローバルな共通語は英語であるため、英語が苦手である典型的な日本人であれば、研究の遂行にしても論文作成にしても、言語障壁が問題となり、英語の得意な人々に比べて不利な立場にあるといえる。


それよりももっと重要な論点として、なぜ自然科学は数学に近く、社会科学になるとそうでないのかという理由がある。むしろこちらのほうが重要である。それは、自然科学系分野の場合、研究対象や解明しようとする法則性は、人間の意志の影響を受けないという前提があるからである。人間も自然の一部であり、人間をも含んだ自然が持っている法則性は、極端な話、人間が存在しようとしなかろうと、不変なのだという前提があるのである。それは、人間ではなく「神の目」から、自然を解明しようとする試みに等しい。これが「客観的」という意味でもある。自然科学で扱う物質は言語の影響をうけない。ただただ、数学的な法則性に則って運動をするというように考えるのである。


それに対して、社会科学が対象とするのは、人間が作り出した社会現象である。人間が作り出すというのはどういうことかというと、人間が考え、行動することによって生まれる現象だということである。そして、人間は、特定の言語を用いて思考し、意思決定をし、コミュニケーションをし、行動する。その結果として社会現象が現れる。つまり、社会現象というのは本質的に言語的要素が含まれた現象なのである。ということはつまり、仮に社会現象になんらかの法則性があったとしても、それは、特定の言語を介在させた場合に限った法則性であるため、使用言語が異なれば、その法則性が成り立たない可能性も十分あるのである。


例えば、日本における社会現象を理解するためには、社会において大多数をしめ、日本語を用いて思考し、意思決定し、行動する日本人の存在を想定せざるを得ない。人々が日本語を用いて行動した結果として立ち現れてくる社会現象を、容易に英語で説明するのは難しい。自然現象が人間の意志の影響を全く受けないと想定するのに対し、社会現象は、社会を形成する人間の意志や意図をもろに受けている。そして考える存在としての人間の意志や意図は、特定の言語の影響を強く受けている。そのような事情があって、別の国で起こっている社会現象にかんする原理や法則が、そっくりそのまま日本の社会現象でも適用可能とはいえないのである。


社会現象には本質的にそのような事情があるわけだが、それでも、できるかぎり自然科学に近い前提をおいて説明できるような部分にのみ研究対象を絞るならば、その研究方法論は、自然科学のそれに近くなってくる。その結果、社会科学でも経済学のように数学を多用する分野が可能になり、そういった分野は、社会科学であっても人間の意志の影響を比較的受けに食い法則性の存在を前提とし。それを数学的に解明しようとしているがゆえに、国際化も実現しやすいといえるのである。