易占いのひとつの解釈

中国で古くから伝わってきた易占いには、「当たるも八卦 当たらぬも八卦」という言葉がある。占いであるからには、何かを占う(予測する)ということになるのだろうに「当たるも八卦 当たらぬも八卦」とはどういう意図があるのだろうか。


いろんな解釈があろうが、以下のように考えてみてはどうだろうか。まず、道具を使った占い自体は、客観的に見て完璧にランダムであると考えられる。つまり、ルーレットと同じで、何が出ようが、それはすべて偶然の産物だといえよう。そういう意味では「当たるも八卦 当たらぬも八卦」である。


では、人間の運はどうであろうか。これには、道具による占いと違って、完璧に偶然の産物とは言えないところがある。例えば、自分がいま運が悪いと感じているとするならば、その気持ち自体が行動に影響し、その行動がさらに自分に悪い結果をもたらす可能性があるからである。運が良いと感じる場合もそうである。そのようなプロセスが、「運の流れ」につながってくる。これは自分の気持ちや行ないが次の展開に影響するプロセスが連なって流れを形成していくので、ルーレットのようなものではない。


であるから、大事なのは、運が悪いときに過度に悲観的になってしまってさらに悪い結果を招かないように、あるいは運が良いときに浮かれてしまって失敗を招くようなことをしないように、いったん心を静めて、ニュートラルな位置に自分自身を持っていくことであるだろう。悪いときでも希望を見出し、良いときには気を引き締める。そうすることで、自分の力ではどうしようもない偶然の力に身を任せつつも、気持ちや行動のコントロールするというような自分にできることを適切に行うことによって、全体として幸運の方向に自分自身を持っていこうとするわけである。


そのような機会を与えてくれるのが、易占いなのである。そもそも私たちは、普段、とらわれのない心でニュートラルに物事を見たり判断したりはできない。先ほどの、運がよい、悪いの例のように、少なからず、なんらかの思いこみにとらわれた状態にある。よって、そういった思い込みとは異なる見解をぶつけてあげることによって、とらわれから一時、解放されることができる。ただし、どんな見解をぶつけるかが問題だ。いちいち、本人(自分)がどのような思いにとらわれているかを診断して、それとは異なる見解をぶつけることは困難である。それに対して、もっとも簡易でかつ有効な方法が、なんの作為もなくランダムに見解をぶつけてみることである。


であるから、易占い自体は何かを予想するのではなく、ルーレットのようなものでどんなものが出てくるかわからないというのがおそらく事実なのである。だが、出てきたものを読んでみて、それをいろんな形に解釈しながら自分を越えた大きな力からのメッセージだとして受け止め、そして日ごろの行いを反省し、変なとらわれや偏見を捨てて世の中をあるがままに見たり受入れたりし、心の平成を保とうとする手段として役に立つと思われるのである。