安岡(2008)は、易を学ぶ心構えとして、小なる自我にとらわれず、眼を大きく開いて(活眼を開いて)この大宇宙、造化のはたらきに心を傾け、達観することが大切だと説く。言い換えれば、偉大な「天」というものに眼を向けるということである。ここでいう「天」とは、宇宙を営む偉大な力が波動、活動しつつ、相互転換性を表しているものである。無限の包容力と、無限の変化性を有する、偉大な創造であり、変化だということである。
天の造化は道であり、私達が道を学ぶというのは、天に随って実践するということだと安岡はいう。そして、無限の造化の理法に棹さして無限に自己を創造変化していく。
安岡によれば、易の考え方は、陰陽相対(相待)性理論である。宇宙の無限の創造変化である大極というものが、陰陽という2つのはたらきの相互転換性を持った性質・機能を有する。陽のはたらきは、活動発展性であり、顕現・分化・発展である。これによって宇宙に万物が表現、繁栄していく。しかし、顕現は分化し、分化するほど先端化、末梢化するので、疲労し、失いやすく、分裂しやすく、破滅しやすくなる。
そこでこれにあいまって、分化するのを統一し、顕現するのを含蓄し、全体性と永続性を保つはたらきとして陰があると安岡は説く。このような陰の統一・結合・含蓄というはたらきは、あやまると萎縮し、固定し、死滅してしまう。陰陽は相対(相待)しており、相互転換性を持っているので、どんどん発展し、進化していく。これを「中(ちゅう)」と呼ぶ。したがって、易は中庸である。中庸とは複雑な現実に処して勇敢に折中していくことだというのである。