過程(process)こそ実在(reality)である

ホワイトヘッドは、過程こそ実在であるという考えに基づく世界観を展開している。「過程こそ実在」ということは、この世にいわゆる「もの」はなく、すべてが「こと」であるということも示唆している。「こと」が絶え間なく生々流転する世界観といえるだろう。中村(20079は、ホワイトヘッドの難解な言葉づかいを使わない説明を以下のように試みている。

われわれの世界は、つねに流動している。動いていないものは、なにひとつない。地球は、自転公転し、宇宙全体は、ものすごいスピードで膨張している。地球上ではひとが歩き、虫はうごめき、風はそよぐ。細胞や、原子の内部も、たえまなく活動している。生物、無生物のべつなく、つねに活発に変化している。これが、わが宇宙の実相だ。ここを起点にしてホワイトヘッドは、すべてを説明していく。したがって、かれの宇宙には、生きていないものは存在しない。すべてが、一様に「生きて」活動している。だが、われわれも巻き込んでいる、このはてしない流動状態は、つかみどころがまったくないから、とりあえず、どこかに切れ目をいれなければならないだろう(中村2007:16)

これらの世界は闇雲に動いているわけではなく、それぞれのスケールで同じようなパターンが繰り返されている。そうしたパターンの流動状態のそのつどの瞬間は、唯一無二のあり方で出現するため、この世界ではただの一度もまったく同じ状態など生じない。つまり、一回だけの比類ない出来事が、同じパターンで何度も反復されているのがこの宇宙のあり方なのだと言う。


ホワイトヘッドによれば、宇宙には、いわゆる「もの」は存在していない。「こと」が生成消滅する世界である。かりに「もの」の存在を仮定しても、ホワイトヘッドの世界観には、堅固な個体は登場しない。すべての「もの」が、まわりの環境と地続きであり、さまざまな浸食作用にさらされている。つまり「もの」が単独で存在できるような切れ目はない。どんな「もの」も、すべての「もの」と複雑な相互作用をしているからだ。つまり、あらゆる「もの」は、実は「こと」ということになるのである。


ホワイトヘッドのいうところの「こと」や「出来事」は、「抱握」というはたらきをしている運動体であるという。つまり、ほかのさまざまな出来事と関係しあっている流動する過程そのものである。「実在とは過程である」という意味もここにある。このような関係の複雑で膨大な網は、絶え間ない流動状態のなかで、それ自体をダイナミックに変容させていく。


上述のとおり、「こと」には鮮明な境界がなく、すべて地続きである。この地続きの状態こそ、ホワイトヘッドのいう「場」や「延長連続体」でり、そこから、世界の生き生きとした状態(actuality)が生まれてくる。それが「出来事」「活動的存在」である。こうした「出来事」の重なりが、ひとつの「場」を形成することによって宇宙が成り立っている。


宇宙では、すべてが複雑にからまりあっており、ひとつとしてほかのものとかかわっていないものはない。その「かかわり」自体が、この世界の実相だという。この「かかわり」は、ダイナミックにあるいは限りなく細かく動き続けている。この宇宙は、一刻もとどまることのない関係そのものの流動体すなわち「有機体」「生きている存在」なのだとホワイトヘッドは考えていることを中村は指摘するのである。