感覚の論理化

石原(2007)が指摘するように、直観的に「これだ!」とひらめくことがしばしばある。それは感覚が掴みとったものであって、論理によって導かれたものではない。しかし、とりわけ学問であれば、その感覚を論理に乗せて表現することが必要となる。これを石原(2007)は「感覚の論理化」と言う。この過程で時に感覚が微妙に修正され、論理が感覚を鍛え直していくようになる。これは妥協の産物であるという見方もあるが、これこそが「論理と感覚の一体化」であると考えられる。感覚的な理解を論理が事後的に整然と説明できる。


論理が必然的に結論を導くのではなく(感覚が掴み取った)結論もしくはゴールに向かって論理が組み立てられていく。つまり、論理の行き着く先が感覚によって先に掴み取られるというかたちで感覚が先行している。論語の「心の欲するところに従いて矩をこえず」になぞらえると「感覚のおもむくところに従い論理にかなう」というのが理想かもしれない。もちろん、論理が組み立てられる過程で感覚が微妙に変化することもあるが、それも、感覚が掴み取った結論を求めて動かされた論理が、その過程で感覚に修正を求めたということになろう。感覚と論理の間を行ったり来たりということでもあり、それが本質なのかもしれない。


書くという行為も重要である。石原(2007)は、書くという行為は、感覚も含め、頭の中にはあるが具体的に論理のカタチになっていないもやもやとした塊や断片の集合を、ある目的に向かって、一本の論理の糸として紡ぎ出していくようなものだという。あるいは「書く」ことの大きな意味は、思考や論理を形にし、結晶化することだと言う。書く作業を通じて、1つ1つの言葉を、その繋がりとしての論理の形に確定していく。書く行為は、自分自身との対話でもある。想定読者を自分の中に作り、その自分が納得できるように書いていくことで、論理が結晶化されていく。同時にそれは「私の思考」として定着していく。書くという作業に集中しながら、自分自身を納得させる運びで文章を引き出していくプロセスで、論理がその文章に乗せて紡ぎ出されるのであり、それは「考えるということはすなわち書くということ」でもあるのだ。