知のパッケージ化、流通、共有

私たちは、物事を判断したり意思決定したりする場合には「考える」必要がある。より深く理解したり、根源的に考える場合には、より厳密に、論理的に考える必要がある。しかし、すべての事柄を、深く、根本的に、厳密に、論理的に考えられるほど私たちの能力は高くない。しかし、誰かがすでに考えたものが「パッケージ化」され、共有されている場合には、それを信用して用いることで、考える時間と手間を節約することができる。昔からこの方法は実践されてきた。


このような知のパッケージ化の典型的な例は、数学の定理である。例えば、直角三角形の2辺の長さが所与のとき、残りの辺の長さを求めよという問題が出たときに、私たちは「ピタゴラスの定理より」辺の長さを求め、それで〇がもらえる。本来であれば、なぜ残りの辺がその長さなのか、論理的に説明しなければならない。しかし、「ピタゴラスの定理により」ということで、その思考過程(証明)はピタゴラスがすでに行っているので、ここでわざわざそれを繰り返し行う必要はないということになる。つまり、ピタゴラスが正しい証明を行ったと信頼して、思考プロセスを省略することができるのである。


数学というのは、このように先人が汗水たらして考えついた証明を、定理というかたちで圧縮し、それらを蓄積し、共有し、利用することで発展してきたのだと言える。このような定理すなわちパッケージ化された知は、数学者の間で流通し、その真偽が検証され、間違いがないというお墨付きを経て、蓄積され、利用されるようになった。しかし、数学ほど厳密ではないが、このように知をパッケージ化し、流通させ、共有し、利用するということは、多くの学問分野や、日々の実践において行われていることである。


とりわけ、現代のような資本主義が中心の世の中では、知がパッケージされると、それが商品としてマーケットで流通し、売買されるようにさえなる。人々は、自分自身で思考する時間と手間を省くために、マーケットで流通している知のパッケージを購入するという手段を用いるようになった。例えば、自分自身で考える代わりに、思想家や哲学者が著した本を購入し、その本によって彼らの思考を追体験したり、彼らの考えを要約したものを自分の思考の補助として用いたりする。場合によっては、自分が考えるのが面倒くさいので、誰々という高名な著者がこう言っているということで済ませてしまう場合もある。これが度を過ぎると、思考停止に陥ってしまい、かつ、流通している知のパッケージ商品の信頼性さえも判断できないまま、盲目的にそれらを信用し、購入し、安直にそれらを利用してしまうとことになる。そうすると、場合によっては間違った知恵を間違った方法で用い、間違った実践につながることさえあるのである。