認識枠組み


社会変化の認識枠組み:S字波と長波
公文俊平(GLOCOM所長)
http://www.glocom.ac.jp/top/project/chijo/2003_03/2003_03_20.pdf
http://www.glocom.ac.jp/top/project/chijo/2003_03/2003_03_20.html

いかなる対象の認識についてもあてはまることだろうが、われわれは、頭の中に、認識の対象となる個々の(個別具体的な)事物や事象[以下では単に“事物” と総称する]を分別してしまいこむための箱をたくさんもっている。これが各種の(抽象一般的な)“概念”にほかならない。そもそも“変化”という概念自体、そのような抽象一般概念の一つである。


“S字波”は、われわれの頭の中にある社会変化の一般的なイメージを、次のようなものだと想定している。すなわち、時の流れの中のある時点で、人々は、何かある新しい社会的事物が出現したことを意識する。・・・出現した新しい事物は、最初はゆるやかに発展していく。ここで“発展”というのは、名前のついた新しい事物の存在感が人びとの心の中で次第に強まり、確実なものになっていくことを意味する。・・・新しい事物の発展は加速してくる。それが存在し発展を続けていくことを疑う人はいなくなる。・・・突破が疑いようもない形で進展していくなかで、人々は新しい事物の存続・発展力について過信し熱狂するようになる。・・・それはしばしばバブル状態を引き起こすが、いずれはバブルが破裂して人々の熱狂には冷水が浴びせられる。過信は反省され、訂正される。しかし、そのような苦い経験を経た後で、新しい事物の存在は、もはや多少の浮き沈みとは無関係な確固たる事実として広く受け入れられ、既存の社会的諸事物の間に取り込まれ、構造的に一体化してしまう。
・・・というわけで、S字波は、変化(進化)する社会的事物を視覚化して認識するために、波をメタファーとして心の中に形作られた(in-formed)、観念的パターンあるいはパラダイムだということができる。

ここに浮かび上がってくるのは、社会変化のフラクタル構造ともいうべきイメージである。つまり、S字波の反復や連鎖、総合や分解は、原理的にはどこまでも可能なはずであり、その限界はわれわれの精神自身のもっている分解能の限界であって、事物自身のそれではない、というイメージがそれである。言い換えれば、全体としての社会変化は、小さな縄が大きな縄の一部となり、それがさらにより大きな縄の一部となりつつ互いに複雑極まる形でつながり合ってもいる、 “あざなえる縄”の形をなしている。その中から、個別の社会的事物や事象を取り出したり、それらが変化していく過程、あるいは他の事物や事象に交代したり、統合・分解されたりしていく過程を取り出したり跡づけたりすることは、高い自由度のなかで、認識・行為の主体が自らの責任のもとに選択・決定しなくてはならない思考の営みなのである。