「見えないものを見ること」

石原(2006)は、若林幹夫の「想像としての現実」という文章を紹介している。若林によれば、現代の「地図」は、地球表面上の「現実(リアリティ)」を切り取って縮図にしたようなものであるという認識だが、中世ヨーロッパや日本では江戸時代までの地図には、神話的なモチーフや伝説の島々など、私たちにとってはどう考えても「非現実的」でしかない事物が、あたかも当たり前の「現実」であるかのように豊富に描かれている。


現代は、科学的測定が可能なもののみが現実としての資格を持ち、それに則って作成された地図は「正しく」過去の地図は「間違っている」といえるかもしれないが、そうした「正しさ」が存在しなかった社会では、世界を知ることは「見えるものを見ること」ではなく「見えないものを見ること」、自らの想像力を駆使して世界の像を生み出すことでしかありえなかったと若林は論じる。


現代の科学的方法が、信仰のひとつにすぎないと解釈するならば、昔の、世界を知るということは「見えないものを見ること」というのは、現代にもそのまま当てはまるであろう。科学的方法で得られた知識は、見えるものではない。実際、私たちはほとんど自分の目で見ていない。そういった知識や伝聞に基づいて世界を構成し「現実を見ている」気持ちになっているだけではないのだろうか。


石原は、若林の論説に基づいて、現代の地図も想像力の産物ではないのだろうかという。地図が科学的に世界を写し取っていると感じているのは、古代の人々が神話を信じたように、科学を信じているからだけではないかというのだ。そして「リアル(現実)」は「リアリティ(現実らしさ)」と同じではないのかという(後者は、本物ではないとわかっていて、本物らしいと感じること)。若林は、「リアル」は「リアリティ」を実体化したものにすぎないということを言いたかったのだと。