私達の身のまわりに、時間の推移とともに、さまざまな出来事が起こる*1。自分がその出来事と客観的にどう関わっていたのかについては、答えがあるかもしれないが、それは問題でない。重要なのは、自分がどうその出来事と関わっているかという、そのときの(あるいは回顧したときに感じる)主観的な感覚や解釈である。もちろん、それは自分を振り返るたびに、異なる理解や解釈が追加されて変容していくことはありうる。
その個別の出来事*2が、偶然の出来事なのか、なんらかの括弧たる因果関係に基づいて起こるべくして起きたことなのか、客観的には答えがあるかもしれないが、それを経験中のわたしたちにはたいてい、わからない*3。
まったくの偶然が重なるように経験されることもあれば、起こるべくして起きた、自業自得だ、などと経験される場合もある。これは、経験している一連の出来事を、どう解釈するかによるのだ。ここで重要なのは、仮にほんとうに偶然の出来事がつながっているだけであったとしても、それを偶然の出来事の連続だとして気にかけないのではなく、出来事と出来事を「一連の流れ」としてつなぐことによって、そこになんらかの意味を見出すことである。
客観的な意味での厳密な因果関係は定かではないかもしれないが、こういうことがあったから、こうなったのだろうか、ということは、物事はこのような方向に向かっているのではないか、などと考えるのである。そのように出来事をつなげながら解釈していくことによって、わたしたちは自分自身を含め、身の回りに起こっていること、つまり自分自身を含む全体について、なんらかの大きな流れを見出していくのである。そして、自分自身はその大きな流れの一部であることも同時に感じるのである。