偶然、因果律、縁起

植島(2007)では、偶然、因果律、縁起といったものを統合的に理解しようとしている。まず、偶然の出来事とは、因果的に決定された多くの系列が交叉した結果だと言える(見えない因果律の重なり合いの1つ)。つまり、世の中には偶然としか考えられないような出来事が起こることがあるが、それにしても、いくつかの事象の系列がある1点で出会うことによって、スーパーナチュラルな出来事が浮上してきたのだと解釈できる。


世の中には複数の因果の系列があるとしよう。一定の方向をもった複数の因果系列がある1点で出会うという必然性はないが、出会ったとするならば、それは、南方熊楠によれば「縁」である。両者が出会ったことによって、両者の方向性が変わってしまう場合、南方熊楠によれば、それは「起」である。よって、どういう原因があってどういう結果が生まれたかはわかっても、別々の理(ことわり)が絡み合うとわからなくなる。宇宙はこういった絡み合いなのだから、因果そのものよりもいかにそれらが絡み合っているかを理解するのが大切である。つまり、南方熊楠は、森羅万象を、さまざまな理(すじみち)が絡み合った一つの集合体であるとみなした。縁起の考え方は、この世に生起することはすべて関係性のネットワークの中にあり、そうした網の目のように張り巡らされた「理(ことわり)」の集合体は、あくまで自己との関わりにおいてしか意味をもたない。


干ばつや飢饉の時の儀礼は非合理に見えるが、それは、この世の中が見えない網の目によってがんじがらめに構成されており、われわれにわかっているのはほんの一部分でしかないわけだから、網の目のように張りめぐらされている「理」のいくつかを目に見えるかたちで示す試みだとも言える。