頭を使う思考=止まった世界という幻想

世界は常に動いている。万物は流転し移り変わる。しかし、われわれが頭を使って考えるためには、一時的に物事を止めなければならない。止まった世界を仮定するといってもよい。


なぜかといえば、世界を止めることによって、概念化が可能であるからだ。概念というのは固定されていなければならない。1つの概念がころころと姿を変えれば、同一性を保てなくなってしまう。また、頭を使う思考において、動くものを想定しても、動く対象そのものは固定しているし、固定したバックグラウンドを動くという構図を描かねばならない。つまり、動くということは、止まっている何かがあることを意味しているのである。そもそも言葉(概念)は対立的な概念がないと存在し得ない。動くという言葉(概念)は、止まっているということを示す言葉(概念)があってはじめて意味をもつからだ。


しかし、現実の世界ではそうではない。すべて動いているのであり、止まって見えるのは、単に相対的な動きの差によるものであろう。すべてが動いている世界を人間の頭で把握することは原理的に不可能である。人間は頭で思考するかぎり、この止まった世界を仮定しなければならず、それは仮定であって真実ではないのに、真実の世界が止まっている、固定されているという幻想につながってしまうのである。


だから、頭でこの世のすべてを理解することは不可能なのである。身体知というのは、頭ではなく身体全体において、世界のことを知っているということを示すと思われるのである。