ベルクソン

知覚とは、<客観的実在>としての物そのものに、人間の感覚器官が働きかけ、対象に人間の側からなにかを足すことではない。それどころか、知覚とは、本来ははるかに複雑で流動的な物の総体から、非常に多くのものを抜き去ること、引き算すること、無視することである(金森2003:68)

僕らの周りの世界は本当はたえず生成し、運動している。だがそれでは生存のための負荷があまりに大きすぎるから、知覚系は、運動をあたかもその時点時点での静止画像のように捉えることによって固着させるのだ。・・・実は、知覚系だけでなく、まさに知性という能力は、知覚系が行っていたことを同じ方向でさらに先鋭に行うのだ。だが、どうやって?
それは言語を介してである。ことばは、世界を固定し安定させるための、この上ない武器なのだ。例えば・・・という行為を、・・・というように言語化してみよう。それは、本来的な流動の世界の混沌と比べて、どれほど明瞭、明快で、単純な世界であることか。ベルグソンにとって、言語とは、持続する世界を放擲して、この複雑な世界のなかをある程度的確に動き回るのに十分なだけの素描を、固定し、決定するための装置である。ことばは、流れを押し留め、固定し、死物に類似したものにしてから、それを使って明晰な概念世界を築き上げる。概念は純粋持続の死骸である(金森 2003:71-72)