研究結果に関する直感が優れた論文につながる可能性

調査結果を得たときに、「これはモノになるのではないか」と直感的に感じることがある。その理由の1つは、調査および結果、そしてそれにつながるストーリーのオリジナリティが高そうだということと、結果が知的に面白く、かつ実践に与える示唆に富んでいそうだということである。しかし、これは直感にすぎないから全く形になっていない。優れた研究の多くが、オリジナリティや新規性が高いことを考えると、多くの場合、その直感を、実際の論文の形で表現することには困難が伴うものである。


そこで、直感を信じてその論文の作成に精魂込める必要があるのかという意思決定が重要となってくる。これはリスキーな意思決定である。論文の改訂には膨大な時間と労力がかかる。その論文がモノにならない場合、その時間と労力が無駄になるからである。


しかし、調査結果を形にすべく、粘り強く挑戦を続けていくと、徐々に、優れた論文として形が整ってくる。一所懸命に考え、知恵を絞り、文章にしながら、研究結果を論理的に整合的な形で記述し、不備な点を見つけては修正していく。時には修正不可能だと思われる欠点が見つかることもある。そうすると、なんとかそれを克服できないか一所懸命考える。そして解決策を考えてトライしていく。このプロセスの果てしない繰り返しが続く。


論文の内容に現状打破の兆しが見えるのが、一流の雑誌に投稿して査読結果が返ってきたときだ。雑誌に投稿する段階では、それなりに努力してもうこれ以上改善はできないレベルにまで完成度が高まったと思われる状態になっている。それでも、一流紙の査読者は、一流の研究者である。いとも簡単に、弱点が見破られ、厳しく指摘される。


査読は基本的に論文の問題点、弱点のみを指摘するので、ときに査読結果はあまりにも厳しく、無情に感じる。しかし、一見するとあまりにも攻撃的であったり批判的であると思われる査読コメントに、論文をどうすればより改善できるかのヒントが宝の山のようにちりばめられている。そしてそれらは、いままで考えてきた違った視点から調査結果や論文を見直すきっかけを与えることにつながり、より深くサーベイする必要のある先行文献や理論のありかを教えてくれる。


とりわけ、致命傷とも思えるような欠陥を指摘された厳しいコメントを前に、このような問題をどう克服すればよいのだと頭を抱えつつ、何日も苦悩の日々を過ごす。しかし、エディターが再投稿を許してくれたということは、まだこの論文が認められるチャンスが残されているということである。つまり、この問題も解決できるブレークスルーが得られるかもしえない。そういったかすかな希望の光を頼りに考え続けることによって、ある日、突然解決策がひらめいたりするのである。そうしたら、すばやくそれをメモし、改善策の計画を立て、実行していくのである。


そうして、当初は思いつかなかったような視点から、理論を再構築するという機会が得られたりする。何度も論文を書き直していくうちに、一貫性のある理論、ロジック、そして面白いストーリー展開がだんだんと整備されてきて、当初は直感的に行けるのではないかと思えるだけで、実質的には荒削りで不備の多かった論文が、内容が整い、学問に貢献できる部分が明確となった真に価値のある論文のように変身していくのである。


もちろん、研究デザインや調査結果のような客観的事実は変えられない。つまり、研究そのものの問題点は消えることがない。しかし、そのような問題点よりもずっと優れた長所がクローズアップされることによって、問題点はあってもなお、貢献度の高い論文として認知できるような形に整っていくのである。


この研究結果は、モノになるのではないかという直感を信じるという信念が駆動力となり、査読者の厳しいながらもところどころに改善のヒントをちりばめてくれる誠意、そしてエディターの改善に向けた親切なアドバイスが、論文の内容を鍛え、優れたものに変身させてくれる。研究のプロである関係者はみな、研究内容に優れたポテンシャルがあれば、それを論文という形で実現させてあげたいという良心的態度で接してくれる。それらの力が結集して、あとは著者の決して諦めない粘り強い精神力と、その論文の改訂にかける時間と労力によって、優れた論文が完成していくのである。