クラフティングが大切な理由


とりわけ実証研究において意味のある研究結果を得て、プロの勘として、これはレベルの高い結果であると感じ、それを論文として発表しようとするさいには、当然のことながらできるかぎりクオリティの高い論文に仕上げ、レベルの高い学術雑誌に掲載させることが重要となってくる。レベルの高いジャーナルであればあるほど、多くの研究者に読まれるし、それを関連する研究に利用してもらえるため、研究成果の学術的貢献度が高くなるからだ。別の言い方をすれば、いくらよい研究成果をあげることができたとしても、それが高名なジャーナルに載らなかったら、多くの研究者の目に触れず、ジャーナルの知名度や評判の低さがゆえに研究成果そのものも過小評価され、その結果、引用もあまりされないため、学術的に十分な貢献ができない可能性が高まってしまうということでもある。


実証結果が出たところで、その結果自体の学術的貢献度のポテンシャルを高めることは難しい。だから、結果のクオリティを所与として、あとは論文自体のクオリティを最大限に高めなければならない。そのために重要なのが「クラフティング」であり、何度も何度も推敲を繰り返すという、場合によっては、投稿と改訂を繰り返しながら行う気の遠くなるような長い作業になる。


どんな実証結果であっても、必ず、どこかに弱点がある。すべてにおいて完璧な実証結果を得られることはそう多くはない。一生のうちに1度か2度あればいいほうではないだろうか。弱点というのは、研究デザイン上の問題であったり、測定尺度の問題であったりする。多くの数量的実証研究の場合、一度サーベイ質問票や計画を作って、実行してしまうと、もう時計の針を反対に戻すことはできない。例えば、あの変数を加えておけばもっと面白い結果がでたかもしれない。この測定尺度は後から考えるとあまり適切ではなかった、、、云々。この手の弱点が見つかったしまった場合、それを直すことは原理的にできないのである。弱点が目立つ論文をレベルの高いジャーナルに掲載させるのは難しい。プロであればあるほど、査読の過程でその弱点が目につくからだ。だから、論文を書く上で大切なのは、いかにして弱い部分をディフェンスしながら、研究結果の優れた部分にハイライトをあてるように書いていくかということである。


クラフティングの巧拙によって、弱点のある研究結果でも、ハイレベルのジャーナルに掲載できる場合があるし、逆に、高いクオリティの研究成果を、低いレベルのジャーナルに掲載せざるを得ない場合もあるのである。では、どうすればよいのだろうか。目指すべきところは、論文全体が、理論構築からはじまって、仮説、そしてその仮説を支持する実証結果、考察と、すべてがエレガントに、かつ緻密に、矛盾なくつながっている論文である。これがなかなかできない。優れた理論がかけても、実証結果がそれを的確に支持するものではなかったり、面白い発見が得られても、理論的な説明が難しかったり、こちらが立てばあちらが立たずという状態から、なんとか完璧なかたちにまで持っていく。これはいってみれば職人技でもあるので、経験とセンスが必要だろう。何度も何度も、ブレイクスルーを経験し、そのつど、論文のクオリティがワンランクアップしていくのが実感できる。


場合によっては、弱いと思われていた部分の見せ方を変えることで、それが長所に転じるということもあるだろう。考えに考え抜いて、練りに練っていくことによって、見事に、セオリーの部分から、実証研究の部分が有機的に結びつき、論理的に抜けのない一貫したストーリーが論文全体に流れるようになる。雄弁さも大切である。学術論文であるから文学的表現はいらないが、それでも、伝えたい理論や発見を、熱意をもって、エレガントに、知的に、そして読者に感動を与えるかたちで表現できれば最高である。だから、表現力、文章力も必要になってくる。このようなプロセスを経て、その論文全体の優れた学術的、そして実践的な貢献度が明確なかたちで読者に伝わるようになったならば、レベルの高いジャーナルに掲載可能となるだろう。


もちろん、その制約条件としては、実証結果が完璧ではなく弱点があってもそれなりのポテンシャルを持っていること。実証結果がたいしたことがなければ、いくらライティングを工夫してもクオリティの高い論文にはならない(実証論文の場合)。ちょっとだけ欠陥があるが、磨けば光る宝石が含まれていることが大前提で、いくらガラス玉を磨いて宝石に見せかけても、それはプロの研究者には見破られてしまうということである。