経営学者のジレンマ

経営学は、企業経営の役に立つべきであるという社会通念があり、かつ、それが大学がビジネススクールを所有することの理由ともなっている。しかし、経営学を発展させることを職業とする経営学者は、ある種のジレンマに陥る宿命を負っているといえる。それは、経営学という知の構築に参加しようとすればするほど、経営学の全貌が見えなくなってしまうというものである。


経営学の現場では、世界中で、日々膨大な研究成果が論文というかたちで生産されつつある。経営学者は論文を読むことに慣れているから、これら最先端の経営学の研究成果を「鑑賞」することは楽しいものである。最先端の研究は、様々な視点を盛り込み、さまざまな工夫が凝らされた賢い研究方法を用いて、あっと驚くような発見を報告してみせたりする。経営学のさまざまな分野の論文を読めば、新たなる発見のオンパレードに知的興奮が抑えきれない。また、経営学全体を俯瞰するつもりで、「これらの研究成果が実践にどのように役に立つのだろう」ということを意識して、幅広く研究成果を鑑賞するならば、おのずと実践に対する洞察も沸いてくる。


しかし、経営学者という職業人として、この「知の構築」に参加しようとしたとたんに、楽しみが苦行に変わるといってよい。学問が高度であればあるほど、その発展に貢献することは難しい。しかし、職業人としてやらねばならぬというプレッシャーもある。そして、経営学を作っていこうとする立場から研究を進めようとするならば、「どのような形で自分は経営学の知の体系に貢献できるのか」という視点となり、おのずと経営学の中でも守備範囲、攻撃範囲を絞り、細部まで深く検討していく必要性が出てくるのである。そうなってくると、自分が貢献をするべき狭い分野の論文を読んだり、研究テーマや研究計画や実施におのずと時間を取られることとなり、経営学の様々な論文を鑑賞する時間を犠牲にしないといけない。


経営学の発展に、研究を通じて貢献するためには、特定分野の知識のみでは不十分である。重要なのは、科学的に正しい研究を計画し、実施し、結果を分析し、論文を執筆していく過程である。ここで多くの時間を割かなければならないのが、経営学の内容そのものとは直接的には無関係の、方法論的な知識や技術の修得である。具体的にいえば、科学哲学の深い理解や、高度な統計手法の修得などである。統計手法の修得のためには高度な数学知識も必須になるし、フィールドワークや質的研究をしようとおもえば、ポストモダンなど現代思想に精通している必要がある。しかも、これらの方法論は、日々進化を遂げ、非常に高度になっているので常にキャッチアップをしていかなければならない。


また、自分の専門分野が確立してくると、その分野における論文査読の仕事も増えてくる。これは、投稿された論文が、雑誌に掲載する価値があるかどうかを審査する仕事である。投稿されてくる論文は玉石混交のことが多く、粗造品の審査とフィードバックに多くの時間を割かなければならないことも多々ある。できれば、質の悪い論文への審査とフィードバックの提供に割く時間を省略して、優れた論文のみを読みたいというのが本音かもしれないが、最先端の優れた論文というのは、厳しい査読のプロセスがあってこそ選別されてくるので、優れた経営学の論文を生み出していくためには査読のシステムが必須なのである。また、経営学の学術雑誌のスポンサー的な役割として、学術活動を維持するための学会活動も、経営学の発展を担う研究者としては必須の活動である。


このように、経営学の発展に寄与しようとすればするほど全体像が見えにくくなるという経営学者のジレンマは、経営学グローバル化し、世界中で何万人もの研究者が日々研究成果を発表し、経営学という壮大な知識体系を作るようになったから起こったともいえる。このように、経営学自体が体系として構造化されつつある中で、最初から全体のデッサンを行うような研究は困難になりつつあるのである。