清水(1996)の論旨をまとめつつ、即興劇・即興ドラマの論理を整理してみることにする。まず、即興劇は、シナリオの決まっていないドラマである。これは、どのような表現も自由自在に生み出すことができる状態である。ここから、互いに間のあった演技が生まれるためには、各人の演技の拘束条件としてのストーリー(シナリオ)が、場所全体において生成される必要がある。このシナリオの創成には、観客も含めた「劇場(場所)」全体が関与する。演技が始まる前に各役者や観客が(こうなるのではないかという期待とともに)持っているストーリーは、この全体シナリオの一種の作業仮説である。この各人の作業仮説の元となる場が共有されているからこそ、各仮説が大まかに共通してくる。そして、場の参加の簡単なコミュニケーションでも互いのストーリーが大まかには合っているか確認できる。
即興的なドラマを演じるためのシナリオを生成するためには、場所全体を見渡すことができる観点に立つ必要があり、逆にいうと見渡せる範囲が場所でもある。そしてその場所には自己が含まれているから、自己とその周囲を見渡すことのできる観点でもある。この「自己超越的な」観点から見た場所の中に自己を捉える「場所中心的自己」がドラマのシナリオをつくり、自己中心的にものを見たり決定する「自己中心的自己」がそのシナリオにそった演技をする。即興劇の参加者が「場所中心的な自己」によってつくったシナリオを共有する。その共有され生成されたシナリオにおいて、各役者の「自己中心的自己」が、そのシナリオの中で自分がどう演技すればよいのかを考えながら演技をすることによって、お互いに間のとれた即興劇が展開する。
ここでいうストーリーあるいはシナリオとは、基本的には「場所全体の展開を語る」ものであり、場所的状況を述語する行為である。そのストーリーには自己も含まれている。これからの自分の行為に対してストーリーやシナリオを作ってしまうことはある意味、自分の行為のオプションを狭めるため、自由を拘束することになる。しかし同時に、その中で、自己中心的自己の観点から、その全体シナリオと整合性のある最善の行為を選んで実践していく。そうすることによって、自分自身が、ある歴史の流れの中に自分を位置づけつつ、歴史全体を展開していくことを手助けする。自己超越的観点から生成するストーリーやシナリオは、ひとり合点であってはリアリティとして成り立たないから、場所を共有している人同士のコミュニケーションなどを通じて、作業仮説としてのシナリオを同調していくことになる。