世の中の動きのメタファー的理解


瀬戸(1995)の「メタファー思考」を援用して、世の中の動きについて理解してみる。私たちは、身体的知覚を基礎として物事を認識することが多い。視覚などを使った知覚をメタファーとして、抽象的な事柄についても理解しようとする。瀬戸(1995)が指摘するように、わたしたちは、あらゆる思考対象を、存在する「もの」と見立てる傾向があり、その「もの」を、視覚的な「空間」のどこかに位置づけたり、そこで動いているものとして捉える傾向がある。たとえば、「出来事」は「コト」であって「モノ」ではないのに、あたかも空間内に存在するモノのように捉えられ、存在する。つまり「ある」と理解される(例、今日、地震があった)。瀬戸は「存在のメタファーは、森羅万象を「もの」化してしまう力を秘めている(p80)」と表現する。


したがって、わたしたちは、空間において物理的な実在(モノ)が動いているかのように、あるいは流れているかのように、世の中の出来事がある方向にむかって動いている(移動している)ように理解する。これを、世の中の流れとか動き(例えば、経済の動き)というように表現し、理解する。「出来事」は「モノ」ではないので物理的に空間内を移動することはありえないのにもかかわらず。だから、世の中の動きや流れには、方向性があり、速さがあり、強さや勢いがあると理解する。


存在メタファーによってあらゆる思考対象が「もの」化されると、それらは、空間内に位置づけられるか、そこを運動する。また、枠や面積や容積をもった「場所」が概念化される。時間でさえも、空間化する(例、○○時間以内に)。また、空間や場所において、上下、前後左右という方位が概念化される。そういった空間や場所で運動(移動)するものを捉えるポイントとして、瀬戸は、(1)発着、(2)方向、(3)経路、(4)動き、(5)速さ、を挙げる。勢いなども含まれるかもしれない。


かくして、世の中が実際には動いているわけではないのに、「世の中の動き」として理解される。新たな時代が動き出したり、時代が後戻りしたり、曲がり角にきたり、行きづまったり。このようなメタファーは視覚が優位に効いているには違いないが、人間が身体全体を用いた全身体的な協同作業による世界との交渉を示している。つまり、身体全体を通じて掴み取る(感じ取る)、具体的な感覚が、抽象的な世の中の動きの理解にも用いられていると考えられよう。