流れの社会的構築

存在論的・認識論的に、流れを考えてみる。流れは、物事が変化するさまを、空間的な視点で捉えたものであるといえる。つまり、変化に方向性があり、勢いがあり、時間とともに後ろから前へ進んでいくという性質を加えるならば、それは水などの物理的物体が、空間上を移動しているかのように捉えることができる。そういう意味で言うと、コンセプチュアルメタファー(明示的な喩えというよりは、人間の思考のなかに埋め込まれたかたちのメタファー)、とりわけ空間メタファーを用いて、人々が経験している出来事の変化(抽象的概念)を理解しようとしているとも考えられる。


存在論的に考えると、流れは社会的に構築されると考える。多くの人が「このように流れている」と感じる、つまり同じ流れのイメージが多数の人々で共有されているならば、物事もそのように流れている、ある程度、客体化してくると考えられる。人々が、流れを認識し、それに対応するかたちで反応するならば、人々の行動そのものに、ある方向をもった流れが前提として含まれているため、その流れが(あるいはその流れを変えようとする動きが)継続する。継続するならば、いっそう、その流れ(あるいはその流れが背後にあると考えられる具体的な出来事の動き、変化)が確からしいものとして人々に映るようになる。


そう考えると、流れが存在論的な意味での「存在」の地位を勝ち取るためには、唯1人がそれを認識しているのでは、いまだ「存在」していていることにはならず、多くの人に、その存在の認識が共有されることが必要条件となってこよう。そして、認識論的にいえば、多くの人がその存在について自信を持つようになればなるほど、人々にとって、その流れが(その流れを象徴する具体的に観察可能な出来事の動きが)、より明確に、確からしいものとして認識できるようになってくるのだろう。