東洋思想の捉え方

東洋思想は、言語や記号による厳密な論理展開をしようとはしない。言語や記号は、あくまで東洋思想を表現するための象徴的なツールである。むしろ大事なのは、東洋思想は、物事の本質を、頭を含めた体全体でわかろう、体感しようとするのである。それがある意味、言葉ですべて表すことのできない「身体知」であり、それを獲得するために、思考だけでなく、身心の動きや鍛錬、瞑想によって物事を感じ取ったりする行為を重視するのだと思われる。それゆえ、東洋思想の文献や言説は、西洋の視点で吟味するならば、曖昧で多義的であり、論理展開は厳密ではなく、物事の記述や予測は正確ではないという判断が下されてしまう。しかし、だからといって、東洋思想が物事の本質を捉えていないとは結論づけることはできない。少なくとも西洋思想という狭い枠組みではできたとしても。


身体全体で本質を感じ取ろうとする東洋思想の特徴は、言語・記号によって、厳密に論理を組み立て、実証していく西洋の科学的思想とは対照的である。西洋思想の場合、主に頭のみを使って考えているように思う。とりわけ、頭の中でも理性とか論理を重視している。よって、言明や命題や論理自体によって、そこで表現している記述や予想が正確かどうか、結論が確からしいかどうかが吟味されるのである。そこには体の動きや、物事をフィーリングで感じ取るようなことは捨象され。あくまで頭の中で展開される言語・記号体系による思考プロセスのみによって世界を理解しようとしているように思われる。


東洋思想が、他者と自分、身体と精神、感覚と思考といったものを切り離すことなく、常に全体でもってとらえよう、理解しようとしているのに対し、西洋では、他者と自分、身体と精神、感覚と思考といったものをすべて区別し、分離し、細分化しながら分析的に理解しようと努めているように思われる。