ザイン・飯塚社長インタビュー

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■飯塚 父親は60歳直前で、まだ現役で機械工場を経営していました。戦後に町工場を始めるのを見ていて、子供ながらに「ああこれはいかんなあ」と思いました。
 中小企業の経営は苦労の連続で、父も苦労していました。背中を丸めて自転車を漕いでいく後ろ姿を見て、あれはやるべきものではない、中小企業だけはやってはいけないと思いました。
■斎藤 人のマネジメントが大変だったのですか。
■飯塚 経営に必要な資源は「ヒト、モノ、カネ」と言いますが、父は金と人で苦労していました。夜遅くまで働いても経済的な余裕はなく、教員である母が家計を支えていたのです。従業員も10名ほどの工場でしたが、すぐにやめてしまったり、工員が行方不明になってよく探しに行ったりしていました。あの頃連れ戻してきた工員さんの写真が今でも残ってます。大変だったのだろうなあと思いますね。

■斎藤 東芝に入社して5年ほどたった頃、技術者の交換制度を作って、アメリカに行かれています。なぜこのような制度を作られたのでしょうか。
■飯塚 長い導入研修の後、私は川崎にあるIC研究所に配属されましたが、東芝で研究している間も、やはり大学院の博士課程3年の時に芽生えた半導体技術の最先端にあるアメリカ企業で仕事をしたいという気持ちがずっと燻っていました。
 そんな入社5年目、国際電子デバイス会議という学会に私の書いた論文が通り、その発表のためワシントンに出張するというチャンスが訪れたのです。その時にフロリダで行なわれていた国際会議にも参加したり、IBMのワトソン研究所、RCAのデビッドサーノフ研究所、TIなどの研究者を訪問したりして、大いに刺激を受けました。訪問するのと実際にそこで研究するのとではまったく違うと思った私は、何とかアメリカで仕事ができないかと知恵を絞っているうちに、技術者交換制度を思いついたのです。
 実際のところは、学部と大学院、合わせて9年も遊んできた人間がアメリカに何しにいくのかなどと、なかなか厳しいことを言われ、海外に行かせてもらえなかった時に考えついたのが交換制度なのです。