実践的認識論・実践の理論

人々は、実践においては、何らかの「認識枠組み」を用いて物事を理解し、その理解に基づいて行動する。それを意識的にやっている場合もあるし、無意識的にやっている場合もある。そのような「認識枠組み」は、実践者が自らの経験によって形成してきたもの、他者の観察や書物などによって形成してきたもの、あるいはそれらの混合によって形成されたものであろう。


優れた実践者が持っている「コツ」なるものは、この認識枠組みが、平凡な実践者もしくは劣った実践者が持っている認識枠組みよりも優れているということも示唆される。そのような認識枠組みおよびそれに基づく実践の原理・理論・モデルといったものは、いわゆる客観的・科学的に普遍性の高い法則として抽出できるものというよりはむしろ、本人の視点からみた世界の中でどう実践すべきかという原理を表していると解釈できる。したがって、そのような認識枠組みは、客観的かどうか、汎用性が高いかどうかとは別の次元である。


ところで、優れた実践者が、優れた認識枠組みを通じて実践をしているがゆえに、現実の世界で優れた成果をあげるのだと仮定すれば、その認識枠組みおよびそこから導き出される行為の原理・原則・理論・モデルなるものは、本人が十分知り尽くしているのだろうか。これに関しては、とりわけ言語でそういったコツなりセオリーを雄弁に語ることができる実践者と、実践自体は優れていてもそれをうまく言語で表現できない実践者とが存在するだろう。しかし、後者であっても、その理由としてはわざわざ言語やモデルというかたちで自らが持つ認識枠組みを捉えなおす必要性に迫られなかったからであって、改めて実践のコツを聞いたり、実践の背後にあるセオリーについて自問あるいは他者から問うたりするならば、なんらか言語的なかたちでそれを表現することはある程度可能であろう。頻繁に内省を行なう実践者の場合は、それを意識的に行なっているがゆえに、普段から自分の持っているものの見方・考え方、実践のコツ、セオリーを語ることに問題を生じない場合が多いだろう。


いずれのケースにせよ、本人が持っている認識枠組み、セオリー、モデルを、言語的もしくはモデルの形で抽出することができれば、それは本人以外の実践者、とりわけ平凡な実践者や劣った実践者にとっては、自らの技能や実践を向上させるなんらかのヒントを提供するものとなるのではないだろうか。