偶数の文化、奇数の文化

一般的に、西洋は偶数を、東洋は奇数を好むように思われる。奇数というのは、英語のodd(奇妙な)をあてたのではないだろうか。つまり、西洋では、奇数は割り切れないので奇妙であると。割り切ることがもっとも理想的な文化、つまり、分かろうとすること(分けられようとすること)が重要なのである。論理的であること、論理で割り切って考えることの重要性である。論理というものは基本的に2進法であり、YESの反対はNOであるため、どちらかに分かれる。


一方、東洋は、奇数を物事の法則的に用いるときが多い。例えば陰陽五行説の五行である。奇数は奇妙ではなく、自然界の理法としてもなんら違和感がない。これは、割り切ることが必ずしも理想というわけではなく、自然とともに生きる、自然と共有するという意味では、割り切れないことを、割り切れないまま扱って問題ない、むしろ割り切れない(アタマで分からない)ことこそが物事の本質である、ということを示しているように思えるのである。陰陽のように一見すると2進法を基礎とするように思えるが、そこに動的な概念を導入し、陰陽のせめぎあいによって、静が動となり、動が静となるような説明をする。色即是空のような考えもそれに通ずる。つまり、2つに分かれているようで分かれていない1つの全体であるというような世界の見方である。YESの反対はNOではなく、YESでありかつ同時にNOであることもありうるとする。