経営学の役割は、意思決定に役立つ知識・情報を提供することである

経営学の目的は何かと聞かれれば、それは企業経営に対して正解を与えることだと答えるかもしれない。しかしそれは違うといいたい。経営学は、現状の経営状態に困っている経営者に対して、処方箋を与えるものではない。経営を改善するための経営手法を生み出すものでもない。実際の経営学研究の現場を見てみれば、研究者は、トピックの経営上の重要性や関連性もさることながら、厳密性にとことんこだわる。それは、理論やロジックしかり、実証研究の方法や分析しかりである。そのような厳密性に多大な時間と資源を投入し、科学的に適切な知識や情報を生み出そうとしている。一本一本の論文を読むと、範囲は狭く、内容が難しく、本当にこれが経営に役立つのかとさえ疑問に感じるかもしれない。


経営者が優れていなければ、いくら経営学の知識を援用しても経営はうまくいかないだろう。優れた経営者とは何かというのは経営学上の(学問上の)問いになり得るが、企業が関わる問題、課題は様々な要素が絡まり、かつ一回切りで固有のものであり、それに対峙して意思決定をするのは経営学者でもコンサルタントでもなく、経営者本人以外にいない。経営者に、適切な判断力、思考力、意思決定力がなければ経営が立ち行かなることは当然だ。経営学は、このような、一回きりの意思決定(企業が存続する限り、それが永遠に続くわけだが)を行う経営者や経営幹部、あるいは一般従業員に対して、良質な(科学的に信頼できる)知識や情報を提供することなのである。それを生み出し、蓄積し、修正するために経営学者は日々、研究に打ち込んでいるのである。


例えを出すのが分かりやすいと思うので、ここで喫煙をするかどうか迷っている人(意思決定者)を例にひこう。この際に、喫煙することについてまったく情報がない場合、どうだろうか。何の情報もないなかで、本人は「エイヤー」と直感とかで意思決定するしかない。それが適切かどうかも分からないまま。では、例えば、身近に喫煙している人がいて、その人は特に健康がないという情報が入手できたとしよう。それに基づいて意思決定するのはどうだろうか。「身近の知人が喫煙しても健康に害がないようだから、喫煙しよう」という意思決定をしたとして、この根拠はどれだけ適切だろうか。では、最後に、世の中で大規模な医学的研究が行われていて、信頼性の高い科学的証拠として、喫煙することが発がんリスクを高め、致死率が〇〇%だという結果が出ていたとするとどうだろう。その情報を用いて意思決定をした場合、その意思決定は適切だといえるだろうか。


経営学は、上記の例でいうと3番目の知識や情報を生み出して提供することがメインの仕事なのである。ここで強調しておきたいのは、提供している「科学的知識」は一般論にすぎないということで、「一般的にいうと」「平均的には」「条件によっては」という但し書きがつくということである。だから、今ここで喫煙するかどうか迷っている人に、「こうしなさい」という命令調の助言を行うような類の知識や情報ではないということである。あくまで一般論だし平均的なものだから、当然のことながら、喫煙しなくても長生きする人もいるし、喫煙しなくても健康を害する人もいるということだ。


喫煙するかしないか、意思決定するのは本人である。だが、まったく情報がない場合に比べ、科学的証拠が入手可能なほうが、自分で納得のいく意思決定ができるはずだ。一般論、平均的な知識や情報があり、それらに内在するロジックや理論が理解できていて、自分なりに、喫煙をしたらどうなるのかがある程度、確率論的にではあるが想定できる。それを理解したうえで、あとは敢えてリスクをとって喫煙するか、安全を見て喫煙をしないか、その意思決定は本人が責任をもってするのである。なぜならば、喫煙と病気といった関係以外にも様々な要素が当の本人には絡んでくるので、総合的に考えてどうかということなのである。その際も、例えば、喫煙をすることでリラックスできるならば、それによってストレスがどれくらい軽減されるのか、ストレスが軽減されるとどれだけ健康に良いのかといった科学的知識があるとなお良いだろう。


では、経営の話に戻して考えてみよう。喫煙の最初の例のように、まったく情報のない中で、経営者がすべての意思決定を「エイヤー」で決めていては、経営が立ち行かなくなることは目に見えている。では、同業者やコンサルタントの助言に基づいて意思決定している場合はどうだろうか。現実のビジネス世界ではこのケースが一番多いのではないかと思うが、同業者やコンサルタントの助言にどれだけ科学的根拠があるか、どれだけ適切な理論と正しいロジックが使われているかが問題である。おそらく、喫煙の2番目の例(身近な知人のケース)だけで意思決定することになるので、こちらも成功は覚束ないと言えないだろうか。成功したとしても、それは良質な知識や情報で意思決定したからではなく、単に運が良かったからといえないだろうか。であるから、やはり、喫煙の最後の例のように、科学的に信頼できる知識や情報が手元にあった方がよいのである。


経営にとっては重要なリスクの概念を使って考えてみよう。何の情報もない中で「エイヤ―」と決めつづける経営の場合、どのようなリスクが背後にあるのかまったくわからない。とんでもない地雷を踏んでしまっても仕方がない。つまり、大博打を打った経営である。稀に大成功をするかもしれないが、あくまで破滅型経営である。このような破滅型経営者のうち10人に1人くらいは大成功して世間からもてはやされるかもしれないが、それはそれで認めよう。では、同業者やコンサルタントの助言に従う場合、そこには厳密な理論やロジックもなく、証拠も科学的といえないのであれば、大ばくちほどではないが、気休めの情報で行う中博打的な経営といえるだろう。どんなリスクがあるのかよくわからないまま、おそるおそる手探りで経営をしていくしかない。


では、喫煙の3番目の例のように、科学的証拠が十分に提供されたうえでの意思決定はどうだろうか。この場合は、良質な知識や情報によってこれから意思決定しようとしていることの選択肢ごとのリスクがある程度推定できるので、リスクコントロールをしながら、適切なリスクをとってリターンを目指すという経営になるだろう。その匙加減をとるのは経営者の役割であり責任である。経営者にとって「匙加減」が大切なのは、実際の経営というものは「サイエンス」というよりは「アート」であると考える人がいることと整合的である。アートというのは、基本がしっかりできている人だけに使うことが許される言葉である。1番目、2番目のケースでは、リスクが分からないので匙加減さえ取れないということなのである。