ノーベル賞につながる論文はどのように生まれたか

研究者の中には、何年もかけてたった1本の論文しか出版できないという人もいる。恐ろしく生産性が低いのではないかと思うであろう。しかし、それがノーベル賞を受賞するきっかけとなる論文だとしたらどうであろうか。恐ろしく生産性の高い、というか世界を変えてしまうような知的生産がその数年間で行われたのだといって等しいであろう。ここでは、ダニエル・カーネマンによる経験談をもとに、どのようにそのような論文が作成されたのかを紹介する。


カーネマンが、エイモス・トヴェルスキーとともに生み出した「プロスペクト理論」は、まさにノーベル経済学賞につながった影響力のある理論であり、雑誌「エコノメトリカ」に掲載された。実は、この事実がノーベル賞受賞の大きなきっかけとなっている。そもそも、カーネマンは、経済学の訓練を受けたことのない「心理学者」であった。心理学者が経済学の雑誌に論文を発表したからこそ、経済学に大きな影響を与え、行動経済学という新たな分野を生み、ノーベル賞受賞につながったというわけである。もし、心理学の雑誌に同じ論文を載せていたら、カーネマンとトヴェルスキーが経済学に影響を与えることも、ノーベル賞を受賞することもなかったであろう。


カーネマンとトヴェルスキーは、1974年から彼らの思索と発見をもとに、リスク下での選択理論についての草稿を書き始めた。1日に4〜6時間はともに過ごし、うまく行った時には1から2行書き進めることができるという様子で、30回ほど改訂した後に、1975年の春に、「価値理論(value theory)」として学会発表した。この新しい理論について、ほとんど誰にも相手にされなかったそうである。


その後、カーネマンとトヴェルスキーは、あらゆる反論に備えるため、理論の欠陥を修正することに、4年間のほとんどを費やした。決して先を急がず、早く仕上げるために質を落として妥協することなど考えもしなかったという。理論に磨きをかける仕事は、理論を定式化するために面白い予想を探ることと、なるほどとうなずける異論のすべてに対して答えを用意しておくことであった。理論の奇抜な着想は、そんな防衛作戦から生まれたのだという。重要な論文であれば、必ず、隙があれば癪にさわる攻撃を仕掛けられるし、何世代にも渡る学者や学生の微に入り細に入る精査の嵐を生き延びる必要があるのである。


いよいろ出版に向けて投稿する準備が整ったとき、カーネマンとトヴェルスキーは、わざと意味のない名称をつけた。それが「プロスペクト理論」である。もし、この理論が有名になることがあれば、特色のある名前がついている方がいいだろうと考えたからだという。そして、経済学の雑誌「エコノメトリカ」に発表したわけであるが。経済学に影響を与えたかったためではなく、「エコノメトリカ」が意思決定に関する最高の論文が掲載されてきたためであったという。プロスペクト理論は形式に従った理論であり、その形式的な性格こそが、経済学にインパクトを与える鍵となったのだという。つまり、理論の中身以前に、当該雑誌、当該分野の「流儀」に沿っているかという、形式や手法の「見た目」を重視する必要があったということである。その結果、論文の内容は経済学の専門分野の学術論文として正当なものであると認められることになったのである。